晩休亭(만휴정)
 
慶尚北道(安東市 ) ,
晩休亭(マニュジョン)は朝鮮時代の文臣・宝白堂(ポベクタン)金係行(キム・ゲヘン)公の亭子(東屋)で、1500(燕山君6)年に建立されました。 現在の建物は重修したため建立当初の姿からは変わってしまっていますが、重修後の朝鮮時代後期の様式を彷彿とさせる造りとなっています。 金係行は朝鮮時代初期の文臣としてさまざまな官職を歴任した人物でした。しかし、朝鮮時代第10代の王・燕山君(ヨンサングン=在位1494~1506年)の暴政に嫌気が差し、官職を捨て故郷へと落郷しました。故郷に帰ると、ソルモッの池(現在の慶尚北道安東市豊山面素山2里にある素山池=ソサンジ)の畔に小さな亭子を一度建てましたが、真横に道があったことから、より静かな場所を求め、この亭子を現在の場所に建てたといいます。 安東市吉安面(キランミョン)にある黙渓書院(モッケソウォン)の川向こうの山あいの、滝のある雄壮な渓谷の谷澗水が盤石の上を流れる絶景の場所に、この晩休亭が南東の方向に向いて建てられています。 * 朝鮮時代の品位が感じられる晩休亭の構造 * 晩休亭の構造を見てみると、 軒先の垂木が一段のみとなっている入母屋屋根となっており、屋根左右の軒先の曲線が鋭く反り返り、亭子の趣をより一層感じられる構造となっています。 晩休亭の建物の大きさは正面3間、側面2間となっています。 正面は柱と柱の間の3間すべて開放することができ、建物正面の風景を楽しめるような作りの高殿の板の間がある亭子となっています。また楼閣の周囲の三方は縁側となっており鷄子閣欄干という欄干を配しています。建物の後は板の間となっており、周囲の縁側を通じて正面の板の間とつながる構造となっています。 また後壁にある戸の下の部分には穹板(クンパン)という板がやや高めにはめられているのもこの建物の特徴です。 亭子の左右にある部屋はオンドル部屋となっており、部屋の正面部分の戸は一般的な両開きの戸が取り付けられていますが、部屋の後ろ側の方の戸は格子模様の三分割の上開きの戸が取り付けてあります。 建物正面をすべて開放できるようにし周囲を縁側にする亭子の構造は稀で、他には同じ安東・吉安面にある薬渓亭(ヤッケジョン)が似た構造となっている程度です。 柱には蓮の蕾の装飾を施した二翼工様式の牛の舌のような形をした飾り板が突出し、この様式から朝鮮時代後期に取り付けられたものと思われますが、朝鮮時代末期の派手な様式とは異なり品位を保つ作りとなっています。 柱貫の上部には蓮の花を施した華盤を設け、趣向を凝らした造りとなっています。 屋根の部分は5本の桁を渡して作った五梁家(オリャンガ)造りとなっており、大梁の上に束柱を立て、棟と梁を乗せ、その上に梯形(台形)の束板を取り付けています。 [文化財情報] 分類:楼(亭)閣 指定:慶尚北道文化財資料第173号 指定日:1986年12月11日 時代:朝鮮時代

桃京里駅(三陟)(도경리역(삼척))
 
江原道(三陟市) ,
桃京里駅は日帝強占期に建設された典型的な小さな駅です。 駅舎は鉄道の線路と並行に建てられその上に屋根が取り付けられていますが、駅前広場のある駅舎入口正面側から見ると駅舎の右寄りの場所に桃京里駅の出入口がありその上部に建物と直交する形で切妻屋根が取り付けられています。 駅舎の屋根と出入口の上の直交した切妻屋根はほぼ同じ高さに取り付けられています。駅舎出入口の右外側には雨よけのひさしが取り付けられ、駅舎を囲むように線路側の方へひさしが乗降客用に延び、その端にプラットホームで列車を乗降する人が出入りする待合室出入口の両開きのガラス戸が設置されています。 外壁は現在はモルタル造であることが確認できますが、竣工当時、元々モルタルであったのかどうかは不明です。 また駅舎の屋根に使用されている屋根瓦は日本様式のものそのものです。 駅舎の線路側の方もさまざまな特徴があります。 駅前広場側の入口同様、線路側の方にも駅舎のメインの屋根と直交する形で切妻屋根が作られている部分があり、その部分は駅舎の建物から線路側に少し張り出す形で作られ駅を行き交う列車がよく見えるよう駅務室が設置されています。また雨よけのひさしは駅舎右側からぐるっと線路側のこの駅務室の横まで続いています。 この駅の特徴的なのは、建物のメインの屋根と直交する広場側の入口上の切妻屋根が建物右側に、同じように建物のメインの屋根と直交する線路側に突出した駅務室がある上部の切妻屋根が建物やや左側にあるというように、切妻屋根がメインの建物に対して十字の形で直交して作られる他の駅とは違う構造となっている点です。 ※竣工年度 1939年5月15日

忠烈祠と亀甲船(충렬사와 거북선)
 
慶尚南道(南海郡 ) ,
李舜臣(イ・スンシン)将軍を祀る南海(ナメ)忠烈祠(チュンニョルサ)。ここ南海忠烈祠には、李舜臣(イ・スンシン)将軍が殉国後、およそ三か月の間、遺体が安置された仮墓がいまだ残っているのが大きな特徴の祠堂です。 1598年11月19日にこの世を去った忠武公(チュンムゴン)李舜臣将軍の遺体は、忠烈祠のある場所に仮安置され、約3か月後の1599年2月11日には全羅南道の古今島(コグムド)を経て、少年期を過ごしたこともある母方の故郷・京畿道(キョンギド)牙山(アサン)の忠烈祠に移葬されました。 ここ南海忠烈祠の歴史は、李舜臣将軍がこの世を去った34年が過ぎた1633年に一間の草舎を建立し祭祀を行ったことから始まります。 * 聖雄・忠武公李舜臣将軍の仮墓 聖雄・忠武公李舜臣将軍は、三道水軍統制使として壬辰倭乱(日本で言う「文禄・慶長の役」)の露梁海戦に参戦、しかし1958年11月19日ここ慶尚南道海南郡の観音浦(クァヌムポ)沖で殉国してしまいます。 忠武公の遺体は観音浦に運ばれ、古今島を経て牙山忠烈祠へ改葬される前までの3か月間現在のここ南海忠烈祠の場所に仮安置されました。その仮墓が現在でも南海忠烈祠に残っています。 * 忠武公碑・忠愍公碑 南海忠烈祠は規模が統営(トンヨン)忠烈祠などと比べ大変小さいものですが、1973年6月11日、史跡第233号に指定され保護されています。朝鮮時代の文臣で学者であった尤庵(ウアム)宋時烈(ソン・シヨル)が建立し、文臣で学者・書芸家であった宋浚吉(ソン・ジュンギル)が揮毫した李忠武公墓碑と祠宇(サウ・祠堂)、そして忠武公碑と忠愍公碑(チュンミンゴンビ)、内三門、外三門があり、また清海楼(チョンヘル)や将軍の仮墓もよい状態で残されています。 * 亀甲船 南海大橋を渡り、桜のトンネルを抜け露梁村(ノリャンマウル)へ下っていくと、忠武公李舜臣が観音浦で戦死した後、遺体を仮安置した場所・忠烈祠とその前の海に浮かんでいる実物大の亀甲船(コブクソン)が目に入ってきます。忠烈祠前の露梁の海に浮かぶ亀甲船は、およそ20年前、イ・ヒスン氏など学者の考証により、本来の大きさで復元されました。 この亀甲船は元々、鎮海(チネ)士官学校にありましたが、1999年12月ここ南海へ持ってきました。亀甲船内には天字銃筒(チョンジャチョントン)、地字銃筒(チジャチョントン)、玄字銃筒(ヒョンジャチョントン)など様々な武器や当時の姿を再現した模型があり、歴史を体験できる場としても大いにその役割を果たしている施設です。

公州 中洞聖堂(공주 중동성당)
 
忠清南道(公州市 ) ,
中洞(チュンドン)聖堂は、公州(コンジュ)地域で初めてのカトリックの聖堂として1897年建てられ、初代神父にはフランス人宣教師ギナンが赴任しました。 その後、1921年第5代主任神父として赴任した崔鍾哲(チェ・ジョンチョル)神父が新たな聖堂の建立を計画、1937年現在の聖堂の建物を造り上げました。 その後も新しい建物を建築、1981年には「天使の家」という講堂を、1989年には新しい司祭館と修女院(修道院)を完成させました。1997年には設立百周年を記念し、聖堂の建物を大々的に修復しました。翌年の1998年、中洞聖堂は忠清南道記念物第142号に指定されました。 中洞聖堂は伝統の木造建築から現代建築へと切り替わる時期のゴシック様式の建造物として高く評価されている建物です。本堂を上から見るとラテン十字の形をした構造となっており、外観は赤煉瓦の外壁となっています。中央玄関の屋根には高い鐘塔があり、玄関入口や窓の上部には先が少しとがったアーチ型の装飾がなされています。 近くにはクッコゲ文化の通りや忠南歴史博物館など数多くの観光スポットもあり、日帰り観光におすすめのコースです。

統営 夜の海 夜景ツアー(통영밤바다 야경투어)
 
慶尚南道(統営市 ) ,
統営(トンヨン)の夜は格別です。 華やかでありながら、温かな雰囲気を醸し出すライトアップが夜の統営運河を彩ります。 夜景ツアーのハイライト・統営大橋は、鮮やかなライトアップの光に包まれ、昼間よりも一層眩しく輝いています。 夜が美しい都市、統営、そして夜の海。 その統営を海上観光タクシーの乗ってゆったりと遊覧。浪漫あふれる統営で夜景の美しいナイトクルーズをご満喫ください。

ジャムドゥボン船着場 - The 9<ハンガンで楽しむ韓国三枚肉>
 
ソウル(麻浦区)
韓国の新名所、 ハンガンの畔で楽しむ「ジャムドゥボン船着場(The 9)」の韓国BBQ ソウル、マポ区に位置する一味違うダイニング体験 韓国ソウルのハンガン河畔、ヤンファ大橋の北端近くにある「ジャムドゥボン船着場-The 9」は、唯一無二の韓国焼肉体験ができる場所です。元々船着場として使われていたこの場所は、今や専用のダイニングエリアに変わり、屋内と屋外の席でハンガンの景色を楽しみながらお肉を焼くことができます。 アクセス方法 合井駅(Hapjeong Station)の8番出口から徒歩10分で、リラックスした散歩がてら簡単にアクセス可能です。また、近くには手頃な料金の公共駐車場もあり、車での訪問も便利です。 入店時の注意点 訪れる際には、基本セットの購入が必須で、追加でメニューの注文も可能です。全て前払い制で、現金やカードでの支払いができます。  おすすめの料理と体験 「ジャムドゥボン船着場-The 9」では、高品質な肉類をリーズナブルな価格で提供しており、特にビーフサーロイン3人前は30,000ウォン、厚切り豚バラ肉は1人前15,000ウォンから楽しめます。石鍋グリルで焼くため、風の強い日でも肉が焦げにくい設計となっています。 Photo / 写真 / 照片(instagram) Photo / 写真 / 照片(instagram) Photo / 写真 / 照片(instagram) メニューの多様性 肉料理だけでなく、鶏丸ごと、鶏足、ピザ、トンカツなど、多様な料理を楽しむことができるため、様々な味を楽しみたい方にも最適です。 夕暮れ時の魅力 日が暮れると、ヤンファ大橋のライトアップとハンガンのきらめく水面が幻想的な雰囲気を演出します。夕食時や週末には多くの人が訪れるため、待ち時間があることも覚悟してください。 文化的なホットスポット 「ランニングマン」などのテレビ番組で紹介された後、特に20〜30代の女性客や著名人に人気があり、ソウルでハンガンを眺めながら韓国焼肉を楽しめる数少ない場所として知られています。 訪れる価値は? 単なる食事以上の体験を提供する「ジャムドゥボン船着場-The 9」は、料理、文化、景観が融合した忘れられない体験ができる場所です。美味しいサムギョプサルを楽しみながら、ハンガンの素晴らしい景色を背景に新しい体験をお楽しみください。

李孝石生家(이효석 생가)
 
江原道(平昌郡) ,
李孝石(イ・ヒョソク)は韓国近現代史を代表する小説家。可山(カサン)という号を持つ李孝石は、1936年、韓国の短編文学の秀作のひとつ「蕎麦の花が咲く頃」を発表しました。 李孝石先生が生まれた場所で「蕎麦の花が咲く頃」の舞台となった江原道(カンウォンド)平昌郡(ピョンチャングン)では2007年地元のお年寄りの証言を基に、李孝石村内の生家跡からおよそ600mほど離れた場所に李孝石の草葺き屋根の生家を復元しました。二男三女の長男として生まれた李孝石の幼少の頃がよみがえってくる場所です。1990年文化観光部から「全国第1号文化村」に指定された李孝石文化村は毎年9月のそばの花が満開となる頃、「蕎麦の花が咲く頃・孝石文化祭」が開かれます。 また、文化村内には李孝石生家跡、水車小屋、小説に登場する飲み屋・忠州(チュンジュ)チプ、可山公園、李孝石記念館、ソバ郷土資料館などさまざまな見どころがあります。

深川駅(永同)(심천역(영동))
 
忠清北道(永同郡 ) ,
深川(シムチョン)駅はKORAIL京釜線(キョンブソン)にある駅で、1905年1月1日に開業しました。 1920年には駅舎が新築されましたが、時代の流れは馬車から汽車へとシフトし、これに伴い鉄道も輸送力増強のため、深川駅付近の区間も複線化工事を実施、1934年に駅舎が移転し新築されたのが現在の深川駅の駅舎です。 深川駅駅舎は建築面積148.86平方メートルの一文字型の木造平屋の建物となっています。 切妻屋根の正面の待合室入口は、正面であることを強調した造りで、建物の線路側の出入口には雨よけの屋根を取り付け、立体感を引き立てた造りとなっています。 深川駅は地元・忠清北道(チュンチョンプクド)を代表する鉄道駅で、ソウルと釜山(プサン)を結ぶ京釜線(キョンブソン)の駅舎の中でも建築当時の原型を留めている駅舎の一つに数えられています。 駅の後ろには小高い山があり、正面には錦江(クムガン)が流れ、景色が大変素晴らしいところです。 近くには錦江の川縁にある陽山八景(ヤンサンパルギョン)があるほか、蘭渓(ナンゲ)国楽博物館、蘭渓国楽器制作村、蘭渓祠堂など国楽に関連する施設も数多くあります。  

李仲燮居住地(統営)(이중섭 거주지(통영))
 
慶尚南道(統営市 ) ,
李仲燮居住地は、慶尚南道(キョンサンナムド)統営市(トンヨンシ)港南洞(ハンナムドン)の文化マダンのそばの路地にある、韓国を代表する近代西洋画家・李仲燮(イ・チュンソプ=1916~1956年)が居住していた家屋です。現在でも居住している人がいる現役の建物ですが、日本式家屋の形態と構造をそのまま残す家屋として、現在もこの地に建っています。

金大中大統領生家(김대중 대통령 생가)
 
全羅南道(新安郡 ) ,
荷依島(ハイド)という全羅南道の島が世間に一躍知られるようになった契機が、波乱と曲折の人生を歩んだ韓国を代表する政治家「忍冬草」金大中元大統領を生んだ故郷だったということです。 1992年の大統領選挙の時には生家跡地がある後広里(フグァンニ)に国内外の記者数百人が押し寄せるということもありました。現在では金大中大統領が生まれ幼い時を過ごした生家は跡地に復元され、昔の姿を取り戻しました。 跡地だけ残っていた生家のあった場所に生家を復元することを決定し、1999年に金大中大統領と同じ族譜の一門による寄付を中心に、大邱老人福祉大学老人会からも120万ウォンの募金が送られてくるなどして復元資金を確保しました。そして以前生家を壊した際の木材等が同じ島の於隠里(オウンリ)にある民家に使われていることが分かりその家を買い取り解体した上で、生家復元の際の建築資材の一部として使い復元、昔と同じ生家の姿になりました。 現在復元された後広里の生家は2,466.12平方メートル(約746坪)の敷地に、建坪59.5平方メートル(18坪)の木造草葺屋根の母屋、倉庫、家畜小屋が元の建物に忠実に復元(新安郡郷土資料第23号)、復元した生家はその後、新安郡に寄贈され、郡では復元された金大中大統領生家を観光資源として活用するため周辺にトイレなどインフラ整備をすすめ、観光客の皆様を迎える万全の体制を整えています。