江原道(洪川郡)

江原道洪川郡(ホンチョングン)斗村面(トゥチョンミョン)泉峴里(チョンヒョンリ)の加里山(標高1,051m)山麓に広がる鬱蒼と茂った森や老松、そして珍しい形の岩々が点在する自然休養林がここ、加里山自然休養林です。 多目的広場、遊戯施設、体育施設などおよそ70種のさまざまな施設を兼ね備えており、キャンプ場、自炊場などもあり団体でのキャンプ地としても最適な場所です。 また森の木々から発散されるフィトンチッド成分が多く含まれる丸太小屋や森林浴場、散策路なども整備されており、心身ともに安らげる休養林としてもうってつけの場所です。


ソウル(龍山区) , 梨泰院・龍山

ソウル地下鉄6号線・緑莎坪(ノクサピョン=龍山区庁)駅は、2019年3月ソウル特別市の公共美術プロジェクトにより、芸術と自然が織りなす文化スペースとして新たに生まれ変わりました。 緑莎坪駅は、地下5階のプラットフォームに降りた瞬間から地上に上っていくまでの間、様々なアート作品を鑑賞できる文化スペースとなっています。


忠清北道(清州市 )

* 災いを救った幢竿、龍頭寺址鉄幢竿 * 1962年12月20日、国宝第41号に指定された清州(チョンジュ)龍頭寺址(ヨンドゥサジ)鉄幢竿(チョルダンガン)。 花崗石で作られた基礎となる支柱は高さ4.4m、その上に立てられた鉄幢竿の高さは12.7m、繋ぎ合わされた鉄幢竿ひとつひとつを構成するそれぞれの鉄筒の高さは63cm、鉄筒の直径は40cmとなっています。 幢竿(タンガン)は寺で祈祷や法会などが行われる際に掲げる旗・幢を挿す柱のことをいいます。 新羅時代以降、寺を建立する時にはこの幢竿が数多く設置されましたが、現在ではほとんどの場合、石で作られた支柱を残すのみとなっており、旗を挿す部分の幢竿は無くなってしまっています。 鉄幢竿としては宝物第256号・公州(コンジュ)甲寺(カプサ)の鉄幢竿や京畿有形文化財第39号・七長寺(チルジャンサ)幢竿、そしてこの龍頭寺址鉄幢竿の三つを残すのみとなっています。 幢竿の支柱は花崗石で作られ、二つの支柱が向かい合って立っています。その間に円筒形の20の鉄筒を縦につなぎ合わせ鉄製の幢竿を作り、立てました。 石造りの二つの支柱の外側の中央には縦にくっきりとした線を刻み込み、単調にならないように変化を与えたデザインとなっており、また支柱の一番上には幢竿を固定する仕掛けを設け、幢竿がゆれないよう工夫が凝らされています。 特に鉄幢竿の下から三つ目の鉄筒に鉄幢竿を立てた経緯やその過程が刻まれています。 この銘文によれば962(高麗光宗13)年に建立され、元々幢竿は30の鉄筒を繋げて作られていたということです。 * 龍頭寺址鉄幢竿にまつわる言い伝え * 鉄幢竿にはこんな逸話が後世に伝えられています。 その昔、清州は洪水が頻繁に発生し、庶民が度々被害を被っていました。そんなある日、とある占い師が大きな帆柱を立てれば、このあたりが船の形になり災難を逃れることができると語り、その言葉をきいた人々は帆柱の役目を果たしてくれる幢竿を立てました。 すると立てるやいなや、それ以降清州の町を洪水が襲うことはなくなりました。この時から人々は清州を舟城(チュソン)と呼ぶようになったといいます。


釜山広域市(東区)

釜山広域市東区(トング)にある「草梁(チョリャン)イバグキル」は、釜山の歴史と文化が息づくテーマのある道。 イバグとは地元・慶尚道の方言で、話・ストーリーと意味することばで、いわば「話の道」「ストーリーのある道」という意味。 このイバグキルには、19世紀末の釜山港の開港を皮切りに、日帝強占期(1910~1945年)、1945年の植民地支配からの解放からしばらくして勃発した韓国戦争(1950~1953年・休戦)により多くの人々が避難民として逃れ釜山に生活の場を築き始めた1950年代から60年代、高度経済成長に沸いた1970年代から90年代の釜山にまつわる逸話がたくさん残っています。 総延長1.5kmのイバグキルは、釜山駅の向かい側にある釜山初の物流倉庫・南鮮倉庫跡を起点に、旧百済病院の建物、草梁初等学校の塀に設けられたイバグギャラリー、井戸、168階段、金敏夫展望台、堂山(タンサン)、 望陽路(マンヤンノ)へと続いています。 中でも、歌曲『待つ心』を作詞した地元・釜山市東区出身の詩人・金敏夫(キム・ミンブ)氏の名を刻した金敏夫展望台は釜山港を一望できる最高のスポットで、その眺望が美しいと評判のところです。 医療奉仕活動を積極的に行った韓国のシュバイツァーと名高い医師・張起呂(チャン・ギリョ=1911~1995年)博士の貢献を称え建てられた張起呂記念館には健康支援センターがあり、また急な道という意味の慶尚道の方言・カッコマクから名付けられたカフェ・ゲストハウス「カッコマク」では山腹道路ツアーや体験プログラムも実施しています。 イバグキルの端にある2階建ての建物にある「イバグ工作所」は地元の歴史館のような施設で、マウル(村)資料館、展望デッキなどもあります。


全羅南道(新安郡 )

塩博物館の建物は、1945年の塩田設立初期に建築された石造塩倉庫を利用して建てられました。この石造倉庫は現在使用されている木造の塩倉庫より前に建てられたもので、資材倉庫として使われていたものを改装し、2007年に塩博物館としてオープンしました。建物が昔のままに残されているため、塩田の歴史の貴重な資料となっており、近代の石造建築の姿を窺い知ることができます。博物館では塩の歴史、文化、ミネラル、天日塩田など、塩に関する有益な情報を提供しています。その他、塩の経済史、技術史、神話、芸術史などについても知ることができます。太平塩田の人々の日常や、天日塩が作られる過程が一目で見られるように構成されており、最近注目されているアッケシソウに関する情報も得ることができます。オープン日:2007年7月14日指定現況:大韓民国近代文化遺産第361号


全羅南道(宝城郡 )

全羅南道宝城の帝岩山自然休養林は宝城と長興地域にわたり続いている帝岩山(807m)の東側にあります。登山路と休養林内に続いている渓谷は特に美しい場所で入口から始まる渓谷は水が澄んでいて水遊びも可能です。また、春となるにはツヅジと緑茶畑、野生花などが美しいです。休養林の中には散策路、運動施設、プール、野生花展示場、展望台などの施設があります。


ソウル(中区)

大韓民国臨時政府ソウル連通府(聯通府)跡は、1919年、中国・上海に樹立された大韓民国臨時政府が国内と連絡を取り、国内行政を担当するため秘密裏に組織された大韓民国臨時政府直轄のソウル連通部(ヨントンブ)があった場所です。 現在はソウル特別市中区(チュング)巡和洞(スナドン)にある同和(トンファ)薬品の旧社屋前に石碑が残されています。


京畿道(坡州市 )

伴鴎亭(パングジョン)は、高麗時代末期から朝鮮時代第4代の王・世宗(セジョン・即位1418~1450年)の治世に至るまで、長きに渡り王を輔弼し89歳という長寿を全うした清廉潔白な官吏・ 黄喜(ファン・ヒ=1363~1452年)が晩年、官職を退き、故郷に戻り、鴎を友とし過ごした、臨津江(イムジンガン)下流の絶景の場所に建てられた亭子(東屋)です。そのすぐそばの少し高くなった場所には六角屋根のもうひとつの亭子・仰止台(アンジデ)もあります。 南北分断の現実を実感できる鉄条網が伴鴎亭のある丘と臨津江の間を遮り、また陽が落ちる頃になると寂しさと美しさが共に感じされるそんな場所が伴鴎亭です 朝鮮時代中期の文臣で学者でもあった許穆(ホ・モク)の『伴鴎亭記』ではこの場所を「朝汐の時になると白い鴎は川上へ群れをなし集まり、砂原はいっぱいとなる」と描写しています。 1452年、黄喜がこの世を去り、黄喜の遺徳を称えるため建てた厖村影堂(パンチョンヨンダン)や祭祀を行う景慕斎(キョンモジェ)が同じ敷地内にあり、臨津江を眺める黄喜の銅像も立っています。 また慶尚北道(キョンサンプクド)尚州(サンジュ)にある玉洞書院(オクトンソウォン)や全羅北道(チョルラプクド)長水郡(チャンスグン)にある滄渓書院(チャンゲソウォン)でも同じように黄喜を祀る祭祀を行っており、黄喜の墓は伴鴎亭から同じ京畿道北部にある汶山(ムンサン)の方へ向かった京畿道(キョンギド)炭県面(タンヒョンミョン) 金縄里(クムスンニ)の山の稜線にあります。 黄喜は左遷、罷免、配流など数々の苦難に遭遇しながらも、60年にわたる官職を貫き、法律や制度の整備、世宗大王のハングル創製に尽力するなど太平の御代を打ち立てる偉業を成し遂げました。 この場所とは異なりますが、同じように鴎を友とするという名称がついた亭子・狎鴎亭(アックジョン)もソウルの漢江(ハンガン)縁に建てられ、世宗大王の時代の文臣・韓明澮(ハン・ミョンフェ)が自らの号を取って狎鴎亭と命名しました。 現在ではその亭子は姿を消し、地名のみが狎鴎亭洞という形で残っており、その跡地は現在のソウル特別市江南区狎鴎亭洞にある現代(ヒョンデ)アパート11棟の裏手付近に当たります。


京畿道(坡州市 ) , 坡州(ヘイリ村)

紺岳山(カマクサン)は京畿(キョンギ)五岳の一つで、岩の間から黒と青の光が共に放たれることということから由来して名づけられた山です。 紺岳山のトレッキングコース・紺岳山トゥルレキルのスタート地点にある吊り橋・紺岳山つり橋は、道路によって山が寸断された雪馬里(ソルマリ)の谷とを結び、再び紺岳山を完全な一つの形に取り戻す役割を果たしている橋でもあります。 紺岳山つり橋は、韓国最長の150mにもおよぶ無主塔山岳懸垂橋で自然との調和を考慮し設計された橋です。


慶尚北道(星州郡 )

星州ハンゲ村は星山李氏が代々住んできた典型的な同姓村落です。朝鮮第4代国王の世宗大王の時に晋州牧師李友(イ・ウ)が住み始めて村を形成しました。現在は月峰(ウォルボン)李廷賢(イ・ジョンヒョン)の子孫達が集姓村を形成して住んでいる村です。村には地方文化財に指定されている9棟を中心に保存状態の良い伝統韓屋が残っています。