開岩寺
 
全羅北道(扶安郡 ) ,
開岩寺(ケアムサ)は、634年百済時代に創建された小さくて静かな寺です。百済滅亡後、百済の人びとが3年にわたり百済再興運動を繰り広げた場所でもあります。宝物第292号に指定されている大雄殿は建物の姿も端麗ですが、建物の後ろを守っているかのようなウルグムの岩とあわせて見ると威厳まで感じられます。

安興チンパンマウル
 
江原道(橫城郡 ) ,
安興チンパンマウルは、1998年から1つ2つとチンパンの店が増え始め、現在では約15軒以上のチンパンのお店がずらりと並んでいます。泰岐山を源として、講林・寧越へと流れる酒泉江があることにより、安興チンパンマウルではチンパンを熟成するのに最適な湿度が保たれています。 質の良い小豆を使用し、昔から伝わる製造方法で作られる安興チンパンはおかあさんの優しい味を思い出させてくれるでしょう。安興チンパンはあんこの甘みが程よく、もっちりとしたパンの食感が特徴です。 また、毎年10月頃には安興チンパン祭りが開催されます。

順天支石墓公園
 
全羅南道(順天市 ) ,
松光面の住岩湖畔に作られた支石墓公園は住岩ダムの建設(1984~1991)によって水沒地域にあった先史遺跡を一箇所に集め復元した所です。 この地域に散在している多くの文化遺跡を保存、継承するために発掘調査を実施した結果、旧石器遺跡4ヶ所、集落地4ヶ所(200基)、支石墓24ヶ所400基、白磁陶窯地1ヶ所、立石4基が発掘されました。 その中で代表的な支石墓郡を移転、復元して子孫たちの歴史教育の場と住民の憩いの空間として活用するため、18,000坪余りの敷地上に公園を作ることになりました。 ここには、支石墓140基余りと先史時代の穴蔵6棟、旧石器時代の家屋1棟、北方的な形の支石墓5基、ソッデ、立石が展示された野外展示場と、支石墓から出土した遺物を展示した遺物展示館、全南地方の墓祭の時代別変遷と映像室を兼ねた墓祭展示館で構成されていて、公園一円が全羅南道の文化財資料第154号に指定されています。

仏影寺
 
慶尚北道(蔚珍郡 ) ,
蔚珍邑から西側に約20km離れた天竺山の麓に位置する新羅の古寺で、ここを中心に下院里という所まで13kmにわたり、秘境とも言われる仏影寺渓谷が続いています。眞徳女王5年(651)に義湘大師が建てたもので、蓮池に仏様の影が映ると言われ仏影寺と名付けられました。朝鮮太祖5年(1396)に火事によって焼失しましたが、翌年に再建、その後4度にわたって修理が行われました。駐車場から寺へ向かう道が山太極水太極(風水の用語で山と水が丸く曲がってできる太極の形)をかたどっていてとても魅力的です。もともと尼さんが修行をする場ですが、寺の庭にある蓮池やその横にある野菜畑は訪れる人たちの心をも和ませています。仏影寺渓谷は、雪獄山の千佛洞渓谷、五台山の武陵渓谷、寶鏡寺渓谷ほどの雄大さ、華麗さはありませんが、名勝6号に指定されただけあり、流れる清らかな水と奇岩怪石、そして生い茂った木々が調和し神秘的で美しい景観が天竺山を背景に広がっています。 * 重要文化財 1) 仏影寺 應眞殿(宝物 第730号)、2) 仏影寺3層石塔(地方有形文化財 第135号) 3) 浮屠(地方有形文化財 第112号) 4) 仏影寺 大雄寶殿 (宝物 第1201号) 5) 仏影寺 霊山会上図(宝物 第1272号)

茂朱寒風楼
 
全羅北道(茂朱郡 ) ,
「茂朱寒風楼」は楼閣として、昔有名だった詩人達が集まり風流をたしなんだ場所です。 1592年の壬辰倭乱(文禄・慶長の役)で焼失しましたが、1599年に再び建てられました。日帝強占期から仏教を広める地として使われ、永同郡陽山の川辺に移され錦湖楼という名前に変わりました。1971年に茂朱の有志により現在の位置に移されました。 「茂朱寒風楼」は湖南地方で全州の寒碧堂、南原の広寒楼と並んで有名であり、その中で最も美しい楼閣として知られています。

華城恐竜卵化石地
 
京畿道(華城市) ,
この場所は、2000年3月21日に国家指定文化財「天然記念物第414号」に指定されました。1999年4月25日、華城市松山面古井里一帯で行われた始華湖(シファホ)干拓地の陸地化における生態系及び地盤振動の基礎調査中に湖の南方干拓地で発見されました。海水準が低下する前は、まだ島だったこの一帯は、中生代・白亜紀(推定1億年前)に形成された堆積層で、恐竜の卵は、始華湖の海水が引いたことで、陸化した島の表面が風化や侵食によって削られた地表から主に発掘されました。これまで調査された12の地点からは、30の巣から200個ほどの恐竜の卵が発見され、干潟一帯への精密調査が行われれば、さらに多くの化石が発見されることと期待されています。 恐竜の卵は、そのほとんどが赤黒い球形を帯びています。卵の表面を見ると、小さな穴が見えますが、これにより胎児は二酸化炭素、酸素、水分を交換したと考えられています。恐竜の卵には、他の卵に比べて、こうした気孔が多く見られますが、これは、恐竜が生息していた中生代の気候に関係があるとされています。当時は今よりも平均気温が高く、極地でも氷河がなかったほど温暖多湿であったため、酸素をたくさん得るために、卵の表面にはたくさんの気孔が必要だったと考えられています。 しかし、この気孔は呼吸作用には有利である反面、水分保護には弱いため、恐竜は地面に穴を掘り、卵を産んだ後、砂などで卵を埋め、水分の損失を防いだとされています。 一方、恐竜の卵の化石は、上部が割れているものがほとんどでした。このうち、卵の破片が殻の中に入っている場合は、孵化する前に他の動物に食べられたもの、破片が殻の中にない場合は、孵化したものだと推定されます。 また、砂などと一緒に殻の破片が卵の中から発見されたものは、堆積物の急な堆積により、孵化する前に割れたものだと考えられます。 これまで発見された恐竜の卵は、殻の断面から、尾の長い4足歩行の竜脚類やハドロサウルス科の鳥脚類の卵であると推定されます。 この一帯は、恐竜の卵の他にも沼地の葦などの珪化木や生痕化石などが大量に発見されました。また、植物化石などが恐竜の卵と一緒に発掘されたため、恐竜のエサや産卵場所の環境の推定が可能となりました。 華城での恐竜の卵の化石発掘は、恐竜の足跡だけに依存していた韓国の古生物学界において、次元の高い恐竜研究の本格化と世界的な恐竜化石発掘地域としての権威向上など、センセーションを巻き起こす結果となりました。