勝洞教会(승동교회)
 
ソウル(鍾路区) ,
勝洞(スンドン)教会は民主主義的色彩が濃い教会として出発しました。勝洞教会は京畿道(キョンギド)内の長老教会の母教会的役割も果たしていました。 勝洞教会が設立に至るまでには、まずヘロン(John W. Heron)が1894年に銅峴(トンヒョン)に設立した弘文洞教会(ホンムンドンキョフェ)までさかのぼります。弘文洞教会の信者の中には韓国の自主独立と内政改革を標榜した独立協会系の人物がおり、その人物らにより宣教師を殴打し追い出そうという計画を立てました。この一件で信者は分派、それぞれ別の教会を設立するに至りました。独立協会系の信者は1904年勝洞教会を設立、その他の信者は南大門教会へと発展しました。南大門教会はその後アメリカ合衆国長老教会病院であるセブランス病院を設立することになります。 1919年2月20日、勝洞教会の地下では当時の京城(現・ソウル)の各専門学校の代表者20人あまりが集まり、3・1運動の指針や計画を論議されました。 また勝洞教会に大韓女子基督教青年連合会(YWCA)が設立、女性の社会活動や奉仕活動の一翼を担う契機となりました。このように勝洞教会は日帝強占期の民族運動や社会活動に大きな役割を果たしました。 勝洞教会の建物は地上2階・地下1階建て、およそ660平方メートルの規模を誇ります。設計者や施工は未詳となっています。 現在は周辺の建物に隠れ、本来の威風堂々たる姿は見られませんが、建築当時には周辺の建物に比べ高くそびえる堂々たる建物でした。屋根の形態は十字型の切妻屋根で、正面の切妻は大きく、側面の切妻は2段となっており、現在は内部の祭壇を広げ、後面に2段の切妻となっています。正面中央部には大型アーチ窓(現在は現代的な四角窓に改造)を、その左右には小型アーチ開口部(現在は現代的な出入口に改造)を設け、切妻には円形窓を設けています。勝洞は仁寺洞(インサドン)に編入されましたが、設立当時の名称をそのまま使っています。 * 年代 : 1904年、1957年増改築 * 規模・様式:地上2階・地下1階建て、面積773.56平方メートル、ロマネスク風

新炭里駅
 
京畿道(漣川郡) ,
新炭里駅は1942年12月1日普通駅として開通しました。1945年一時北朝鮮に所属が変更されましたが、1955年8月15日から再び韓国側に所属が変更されました。主な利用客は近隣の高台山登山客と安保観光客が大半を占めます。

四仙台観光地&彫刻公園
 
全羅北道(任実郡 ) ,
四仙台観光地(サソンデ・グァングァンジ)は蟾津江上流の烏院川近くにある四仙台に造成され、1985年12月28日に国民観光地に指定されました。四仙台には伝説があり、鎮安郡馬耳山の2人の仙人と任実面ウンス山の2人の仙人とが一緒に遊んでいると、それを見た天女が美しい景色に惹かれて舞い降り、仙人と一緒に遊んだといわれています。 四仙台周辺は奇岩絶壁や森、清流のある景勝地で、四仙台の上にある森の中には雲棲亭(地方有形文化財135号)という東屋があります。1928年に金昇熙という人が父親の遺徳を偲ぶために建てたもので、日帝強占期、各地の憂国の士たちがここに集まり、亡国の恨みを慰め、国の未来を憂慮した場所だといわれています。また、四仙台彫刻公園には優れた彫刻家が近くの五弓里美術村で制作した彫刻作品が展示されており、様々な作品を鑑賞することができます。

広徳寺
 
忠清南道(天安市 ) ,
広徳寺(クァンドクサ)は新羅の善徳女王の時代(637年)に慈蔵律師が創建し、興徳王の時(832年)に珍山和尚により再建されました。牙山市と天安市の境界になっている広徳山(699.3メートル)の東南方向、太華山(455.5メートル)の西南側の山裾にあります。一柱門の表側には「太華山広徳寺」、裏側には「湖西第一禅院」と書かれた扁額がかかっていて僧の禅の修行道場であることを示していますが、それはひっそりとした雰囲気からも感じられることでしょう。朝鮮時代初期に第7代の王である世祖が病を治すべく通ったとも伝えられていて、壬辰倭乱以前は忠清、京畿地域で最も大きな寺の1つとして数えられるほどの勢力を誇っていました。しかし壬辰倭乱で寺は焼失してしまい、現在かつての栄華を直接確認することはできません。大雄殿、冥府殿、千仏殿など大部分の建物は近年になって再建されたものです。大雄殿の近くにある宝華楼の前には樹齢数百年になるクルミの木が、また尞舎の隣にも大きなクルミの木があることから、広徳寺には古くからクルミの木が自生していたことがうかがわれます。境内は品良く整備されています。特に参道横を流れる渓流のそばには高名な僧である法頂の手による「無所有」ということば書かれた立札が立っています。「私たちの目標は豊に所有することではなく、豊に存在することである。生の量が問題なのではなく、生の質こそを問わねばならない」という一節が広徳寺を訪ねる人びとの心をきれいにしてくれます。周辺の見どころ:独立記念館、柳寛順烈士史跡、天安慰霊城跡、牙山顕忠祠、孟氏杏檀

トリ山展望台
 
全羅南道(珍島郡 ) ,
上鳥島 礪尾里のトリ山頂上にある「トリ山展望台(トリサンチョンマンデ)」は、多島海(タドヘ、島が多い海)の壮観を一望することができる 鳥島(チョド)旅行のハイライトといえる場所です。 木で綺麗に建てられた展望台にあがると観梅島(クァンメド)、屛風島(ピョンプンド)、羅拜島(ナベド)、大馬島(テマド)、小馬島(ソマド)など鳥島周辺に群鳥のように散ばっている多くの島々を一望することができます。 また、島の間から昇り沈む日の出と日没の両方をこの展望台一ヶ所から見ることができ、海霧(海にかかる霧)がない日は、遠くの甫吉島(ポギルド)と済州島の漢拏山、楸子島(チュジャド)までも見ることができます。 上鳥島(サンチョド)から下鳥島(ハチョド)とつづている鳥島は、天恵の自然の美しさをそのまま大切にしています。多くの島々が海の上に浮かんでいる絶景を、一目で見渡せる上鳥島のトリ山(210m)展望台に引けをとらない展望ポイントとして、敦大峰(トンデボン、230m)と下鳥島の灯台があります。鳥島はゆったりとした小さな漁村の雰囲気があり、松林がある小さな海水浴場などが隠れています。

メガボックス海雲台(메가박스 해운대)
 
釜山広域市(海雲台区) ,
2005年5月、メガボックスコエックス店のオープンをはじめ、現在、ソウル・釜山・大邱・蔚山・光州など主要地域に展開しています。メガボックス海雲台は全10館、1,835席の規模で海雲台スポンジモールにあります。映画観覧以外にもショッピング、食事、ゲームセンターなども楽しむことができます。釜山国際映画祭(PIFF)公式上映館であり、メガボックスコーヒー専門店の1号店(MEGATERIA)があります。特に、シネマスコープを表現することができる大型スクリーンとひじかけが2つある広い座席は映画鑑賞には最適で、メガボックスの自慢です。それだけではなく、「映画よりもおもしろい映画館」をスローガンに様々なイベントが準備されています。

東国寺(群山)(동국사
 
全羅北道(群山市 ) ,
* 日本強占期に建立された寺院、東国寺 * 東国寺(トングクサ)は1909年から群山(クンサン)で布教を始めた曹洞宗の日本人僧侶・内田仏観(善応仏観)が1913年に建立した寺です。 日本強占期(1910~45年)の間、日本人の住職によって寺は守られてきましたが、1945年8月15日、日本の植民地支配から解放される日を迎え、大韓民国の懐へ戻ってきたという苦難の歴史を持つ寺です。 東国寺は韓国に残された唯一の日本式の寺で、大雄殿と寮舎の建物が渡り廊下でつながっているのが特徴です。 韓国の伝統家屋に見られる原色鮮やかな丹青(タンチョン)で彩られた韓国の寺院とは異なり、装飾がない軒や大雄殿の側面には多くの戸があり、日本的な雰囲気を醸し出しています。 東国寺は曹渓宗第24教区・高敞(コチャン)禅雲寺(ソヌンサ)の末寺に当たります。 東国寺の大雄殿は2003年7月、国家指定登録文化財64号に指定されました。 東国寺の元々の名称は錦江禅寺(錦江寺)と言われていました。この錦江禅寺は1909年、内田仏観という日本人僧侶が群山に布教所を開設し創建した曹洞宗の寺でした。 日本の仏教は1877年、釜山(プサン)の開港とともに、日本政府の要請により流入してきました。 一番最初に浄土真宗大谷派が布教を開始し、1904年群山にも布教所を開設し、日蓮宗が続きました。 日本の仏教が韓国に進出した理由ですが、純粋な仏教布教が目的ではなく、韓国を日本に同化させようとした日本政府の意向をそのまま反映したものと言われています。 その後、朝鮮総督府は日本の仏教を普及するため、1911年6月3日付で寺刹令も発布しています。 寺刹令を契機に、日本の仏教界は全土に別院・出張所・布教所などを設立しました。 錦江禅寺が建立される前、群山には本願寺、群山寺、安国寺がすでにありました。錦江禅寺を創建した内田仏観は布教を始めた1909年当時、すでに77歳の高齢で、群山地域を布教活動している途中、群山の一条通りにあった家屋を借り、布教所を開設しました。1913年7月に現在の場所に移り、現在の東国寺の建物を新たに建立しました。 * 東国寺の意義 * 東国寺は日帝強占期に建立された寺です。日帝強占期に建てられ現在まで残っている日本式の寺はすべて壊され、唯一残っているのが東国寺です。特に、東国寺大雄殿は2003年登録文化財第64号に指定されました。