慶尚南道(統営市 )

統営忠烈祠は李舜臣将軍の祠宇です。1973年6月11日に史跡第236号に指定されました。1606年に王命を受けて李雲龍が建立し、1663年に賜額になりました。正祖御製記板と明の国から李舜臣に下した8種類の下賜品が保管されており、正門の外には墮涙碑が建てられています。


京畿道(南楊州市) , 南楊州

京畿道南楊州市の天摩山のふもとにあるモンゴル文化村は、1998年に南楊州市とモンゴルのウランバートル市が締結した友好協力条約によって作られたところで、モンゴルの伝統文化や芸術に触れることができます。展示館にはモンゴルの伝統衣装や楽器、生活用品など、モンゴルの歴史や文化が分かる800点余りの様々な品が展示されています。また、320席余りの観覧席が設けられていて、様々なモンゴルの文化芸術公演を楽しむことができます。現在19人のモンゴル文化芸術団員が常駐して上演しており、モンゴル伝統の歌や踊りの他、楽器演奏、技芸、綱渡りなど、多彩な公演が見られます。


全羅北道(扶安郡 )

格浦海水浴場(キョッポヘビョン)は、全羅北道 扶安郡 辺山面 格浦里にある海水浴場で、辺山半島国立公園に属しています。彩石江の絶景を間近で見ることができ、干満の差が激しくないため水が澄んでいます。大川海水浴場、万里浦海水浴場と共に西海岸の3大海水浴場として数えられています。格浦海岸へは扶安邑から直行バスで40分、全州市からは1時間40分、金堤からは約1時間の距離にあります。


釜山広域市(東莱区)

東莱邑城址(トンネウプソンジ)は、東将台(トンジャンデ)がある忠烈祠(チュンニョルサ)の裏山から馬安山(マアンサン)を通り、西将台がある東莱郷校の裏山までの丘陵地や現在の東莱(トンネ)市街地中心の平坦な地域を一部含む典型的な平山城の形式で築城した城郭址です。東莱邑城は山城や平地の利点の双方を持つ、代表的な邑城でした。 高麗時代末期から朝鮮時代初期に築き上げられたものとみられる東莱邑城は、1592(宣祖25)年の壬辰倭乱(日本でいう「文禄・慶長の役」)の際、この地域を治める東莱府使・宋象賢(ソン・サンヒョン)公をはじめとする軍・官・民あらゆる人々が渾然一体となり倭軍に立ち向かい、壮烈な戦いが繰り広げられた壬辰倭乱初期最大の激戦地でした。 壬辰倭乱以降放置されていた東莱邑城でしたが、1731(英祖7)年、東莱府使の鄭彦燮(チョン・オンソプ)が国の要である東莱の重要性を鑑み、壬辰倭乱当時の邑城よりもさらに大規模な邑城を築きました。この時築城した邑城が現在までその痕跡を残している東莱邑城です。 東莱邑城には東門、西門、南門、北門、人生門、そして暗門があり、それぞれの門には門楼もあります。 東門には志喜楼(チヒル)、西門には心成楼(シムソンヌ)、南門には無憂楼(ムウル)、暗門には隠一楼(ウニルル)と言われる楼閣があります。 また重要な門楼であった南門には翼城(イクソン)を設け、前面に洗兵門(セビョンムン)、後方に朱鳥門(チュジョムン)を置く二重構造となっているほか、西門・暗門・北門には敵からの攻撃から守るため城門の前方に半円形の城郭を設けた甕城(ウンソン)の形式となっていました。ほかにも東莱邑城には、城内の高台に設けた建物で将帥が敵の動きを監視したり兵を指揮する為の指揮台・将台(チャンデ)、望楼(マンヌ)及び15の堡楼(ポル)などもありました。 日帝強占期(1910~1945年)になると、市街地計画という名目で西門から南門にいたる平地にあった城郭が撤去されたほか、南門から東門に至る城郭のあった場所にも民家が建てられ、結果、馬安山を中心とする山地にのみ城郭の姿がわずかに残るだけとなりました。 2000年代以降、東莱邑城内の敷地で行われた様々な工事の際の発掘調査により、壬辰倭乱当時の城郭の痕跡(朝鮮時代前期の邑城)や壬辰倭乱以降築かれた平地に築城された城郭の痕跡、そして朝鮮時代末期に修築された城郭を確認することができました。 これら発掘調査により、東莱邑城全体の正確な範囲、規模などが分かり、東莱邑城研究に多大な貢献をもたらしました。 釜山広域市では現存する城跡を中心に、毀損あるいは放置されたままとなっている城郭については発掘調査とともに補修・復元を今度とも推進する予定です。 <出典:釜山文化観光>


慶尚北道(慶州市 )

含月山の裾野に位置する骨窟寺は石灰岩盤に造られた韓国唯一の石窟寺院です。6世紀ごろインドから来た光有聖人の一行が自国の寺院様式を踏まえ創建したもので、岩石の上部に磨崖仏を作り周囲に12の石窟を掘り法塔を作りあげました。法塔は本来12個所すべてにありましたが、現在は7箇所の法塔のみ残っています。骨窟寺(コルグルサ)ではとりわけ磨崖如来坐像と観音窟が有名です。新羅仏の特徴がよくあらわれている磨崖如来坐像は岩に彫り込まれていて、その高さは4メートルほどあります。穏やかな微笑をたたえたこの仏像は、頭は髷を結び、目は細く、口は小さく、狭く長い鼻をしています。風雨などから守るべくガラスの覆いがかぶせられています。7個所の石窟のうち最も広い法堂を持つ観音窟は、観世音菩薩を主仏とし壁面には108観音菩薩像をまつっています。観音窟は窟の前面に壁があり瓦が葺いてある一般的な法堂の姿をしていますが、内部に入ると天井も壁もすべて石でできていることが分かります。骨窟寺は一般的な寺院とは印象が明らかに違います。寺院を見るためにはロッククライミングのようなスリルを受け入れなければなりません。事実、骨窟寺にはあちこちに手すりやロープが設置されており、長い階段と危険な岩を登り終えてはじめて観音窟、地蔵窟、薬師窟などの洞窟に作られた法塔を見ることができます。特に磨崖如来坐像はロープにつかまって登った後、さらに洞窟の形をした岩を越えてようやく辿りつくことができます。


江原道(江陵市) , 江陵

注文津(チュムンジン)香湖(ヒャンホ)海岸はBTSがアルバムジャケットを撮影したバス停フォトゾーンがあるところです(このバス停は実際に運営しているバス停ではありません)。 また随所にフォトゾーンがあり、海を背景に思い出に残る写真を撮ることもでき、国内外から多くの観光客が訪れる江陵のホットプレイスとなっています。  


慶尚北道(慶州市 )


慶尚南道(巨濟市 )

神仙台(シンソンデ)とは紺碧の海とともに絶景をつくりだしている奇岩怪石のことです。「神仙台」という名前は仙人がここに遊びに来たとも言われるほど、美しい場所であるということからつけられました。幾層にもなっている岩は藍色、黄色などさまざまな色を帯びており、長い歴史を感じ取ることができます。道路から神仙台までは階段が設置されており、直接降りることができます。神仙台を過ぎてガソリンスタンドを過ぎると、神仙台展望台が現れます。ここからは神仙台と周辺の海岸線を一度に見ることができます。これまでにもドラマやCFの撮影地としてたびたび利用されてきたほどの美しさで、3-4月には道路付近で満開の菜の花を楽しむこともできます。


江原道(三陟市) , 三陟

海歌詞の地である臨海亭は「三国遺事 水路夫人伝」で伝えてられている「海歌」という説話を土台に復元されたので文献上、正確な位置を知ることはできませんが三陟海水浴場の北側の臥牛山の端にあると推定されています。しかし、ここは現在軍事保護施設地区として開発が不可能で周辺の景観が美しい隣接地域である甑山洞海岸に作り変えられました。「三国遺事 水路夫人伝」に伝えられている「海歌」という説話を土台に復元された臨海亭と海歌詞記念碑が建てられていて、周辺の駐車場が拡大され、水路夫人公園が作られました。2006年4月に愛の如意宝珠のドラゴンボールが設置され、ここを訪れる人達に願いや恋人達の愛の誓いを祈願している新概念観光名所として人気です。特にここには東海の日の出の名所である湫岩海水浴場を一番美しく見ることができる写真撮影地として有名です。* 説話の背景新羅時代の善徳女王の時代、純貞公が江陵太守として赴任している途中、臨海亭という所で食事をしていましたが、突然海龍が現れ、夫人を海の中に引きずり込んで行ってしまいました。夫である純貞公が海歌という歌を作って歌うと龍が水路夫人を連れて現れました。