忠清南道(保寧市 )

忠清南道、保寧市にある石炭博物館は石炭事業の歴史と重要性を伝えるために作られた博物館です。内部展示と野外展示に分かれていて石炭の生産過程、採炭、運搬過程など、それぞれの過程で使われる道具を展示、また映像を通して石炭を掘る様子も見ることができます。特に韓国初の坑道の中を体験できる模擬坑道では廃鉱で出てくる風を利用して冷風トンネルを作り、トンネルの壁には鉱山関連の写真を展示しています。また、坑道の中では採炭過程を実物大サイズで再現しており、まるでエレベーターに乗って実際に地下400mの坑道まで降りてきたような体験をすることができます。観覧時間は午前9時から午後6時まで(冬季は午後5時まで)で毎週月曜日は休館日。


慶尚北道(慶州市 )

慶州(キョンジュ)崔氏(チェシ)の宗家で、新羅時代、瑤石宮(ヨソックン)があったと伝えられている場所にある、慶州崔浚先生生家(慶州崔富者宅)。 九代に渡り代々受け継がれる、1700年ごろに建てられたというこの家屋ですが、はっきりした建築時期は分かっていません。 建物には舎廊(サラン)チェ・母屋・大門(テムン)チェなどの各建物があり、その中でも大門チェの建物には小さな部屋や大きな物置となった部屋などがありました。 客人を迎えたり男主人が生活の場としていた舎廊チェの建物は中庭の向かい側にありましたが、離れの建物のとともに1970年11月火災により焼失、現在の建物のみが残りました。 舎廊チェのあった場所の後ろにある母屋は、中庭を囲むように建てられているように見える構造となっていますが、実際にはこの母屋は「コ」の字型となった建物で、「フ」の字型をした舎廊チェの建物や一文字型の中門(チュンムン)チェの建物が合わさり、中庭を囲む「口」の字型の建物のように見えるのです。 また、母屋の西北の方には家廟(カミョ)が設けられているほか、古宅前からまっすぐ南へまっすぐ伸びる幅員の広い通りは当時の栄華を偲ばせ印象的な道となっています。 このほか母屋の裏手に花畑があり、古宅の美しさに花を添えています。 古宅は朝鮮時代の支配階級・両班(ヤンバン)の家屋の原型を留めていることから、当時を知る重要な史料との評価を受けています。 文化財の指定がなされた当初は、慶州崔植(チェ・シク)氏家屋という名称でしたが、慶州崔氏一門が代々受け継ぎ暮らしてきた家でもあり、また慶州地域の名立たる富豪で「校洞崔富者チプ(家)」と広く知られていることから 「慶州校洞崔氏古宅」へと名称を変更(2007年1月29日)しました。 <出典:文化財庁国家文化遺産ポータル>


京畿道(南楊州市)

鳥安(チョアン)は2010年11月に首都圏で初めてスローシティとなった場所です。八堂から楊平から大成里みに続く南漢江沿いに自転車道路があります。また、雲吉山駅から馬鎮山城、水鍾寺、松村独立公園を過ぎてスローシティ文化館を見るコースがあります。鳥安面には12の村があり、有機農で栽培されたイチゴや梨、稲と萩で作られ工芸品が特産物として有名です。


ソウル(鍾路区)

1992年に開館したソウル大学校病院医学博物館は1999年常設展示館としてリニューアルオープンし、2001年には体験展示室を増設、医学専門博物館として広く知られるようになりました。 2007年には大韓医院設立100周年を迎え、史跡第248号に指定された旧大韓医院本館(時計台のある建物)2階全体を新たに改装しました。(大韓医院は1910年に朝鮮総督府医院、1928年に京城帝国大学医学部附属医院、1945年の光復以降にソウル大学校附属病院と改称され現在に至っています) 本博物館は近代医学導入以降の各種文書及び医療機器など約1,000点、韓国近代医学史料約8,000冊を所蔵している医学専門博物館です。韓国の近代医学の発達や医療機器の変遷、そしてソウル大学校病院の変遷について歴史的価値のあるさまざまな関係史料を展示しており、また関係資料の収集以外にも展示・保存・教育及び関連情報提供など包括的かつ体系的に行なっている機関でもあります。 21世紀の最先端医療機関を標榜するソウル大学病院。その名にふさわしい医療博物館となるよう精進してまいります。


釜山広域市(東区)

釜山鎮(プサンジン)日新(イルシン)女学校は、近代的な女性教育機関として、オーストラリア長老教宣教会女性伝道部が1895年10月5日、釜山・佐川洞(チャチョンドン)に一間しかない草葺き屋根の建物に修業年限3か年の小学課程学校を開設したのが始まりです。 その後1905年に建てられた2階建て煉瓦造りの校舎は、現在に至るまで残っており、2001年まで釜山長老会神学校の建物としても使われていました。 釜山鎮日新女学校は、現在同じ釜山広域市の金井区(クムジョング)釜谷洞(プゴクドン)にある東莱(トンネ)女子高等学校の前身でもあり、また1919年に起きた3・1独立運動の拠点となった場所でもあります。


忠清北道(沃川郡 )

忠北沃川郡沃川邑下桂里は、「郷愁」で広く知られる詩人・鄭芝溶が生まれ育った故郷です。鄭芝溶の生家横には鄭芝溶の生涯と文学を理解し、観賞できるよう、鄭芝溶文学館が建てられています。文学展示室には、テーマ別に鄭芝溶の文学に触れられるよう、各種作品などが展示されています。


ソウル(城北区) , 大学路・城北洞

この建物は高麗大学校の前身である普成専門学校の本館として建てられました。普成専門学校は韓国人の手によって設立された韓国最初の近代的高等教育機関というべき学校です。 1905年大韓帝国内蔵院卿(大韓帝国皇室の財産を管理する組織のトップ)を歴任した李容翊(イ・ヨンイク)が教育救国の理念の下、礴洞(パクトン)現在のソウル特別市鍾路区寿松洞にあった露語学校があった場所に法律と実業教育を目的に開校しました。1910年には天道教から買収し、現在のソウル市鍾路区安国洞の場所に2棟の木造校舎を建て、法科と商科の専門課程を開設しました。 しかしながら財政難に陥り、実業家の金性洙(キム・ソンス)が1932年この学校を買収、1933年現在のソウル市城北区安岩洞の地に移転しました。 本館の建物は図書館とともに安岩洞に学校が移転し建てられた代表的な建物です。日帝強占期も中央高等学校本館などの創意的な作品を発表した朴東鎮(パク・トンジン/1899-1982)が設計、日本人の藤田幸次郎が施工を担当しました。 1933年9月に着工、1934年9月石造鉄筋コンクリート造の3階建て建物が竣工しました。平面は中央部を中心にして左右の翼のようになった部分が短く処理されたH字型の完璧な左右対称をなしています。建物には花崗岩を建材に使っています。内部にはスチーム暖房や水洗式衛生装置を兼ね備え、当時としては最新式の施設でした。 解放後の1946年8月には政法、経商、文科3つの単科大学に8つの学科を編成した総合大学に昇格、改編し、高麗大学校という校名に変更しました。 ※面積- 3,223平方メートル ※所有者 - 学校法人高麗中央学院


済州道(済州市 )

1916年10月に無人の灯台として初めて点灯された山地灯台は1917年3月に有人灯台に変更され、1999年12月に現在の形に新しく灯塔を新設しました。山地灯台の灯塔は白色円形コンクリート構造で高さは18メートルです。2002年12月に国内技術で開発した高光力回転式大型照明機に取り替えられて15秒に1回ずつ光り、その光は48m先まで届きます。山地灯台周辺は広い海とサラ峰が広がっている景観の美しい場所で都心からも近いので幼稚園生から高校生まで、灯台探訪を兼ねた体験学習上として脚光を浴びており、灯台としての役割だけではなく、観光資源としても重要な役割をしています。 * 最初の点灯日:1916年10月 * 構造:白色円形コンクリート造り(18m) * 灯質:閃白光15秒1閃光 (FIW15s) * 特徴:済州島の関門である済州港 の後方にあるサラ峰の中腹に設置されている灯台で済州北部の』沿岸を航海する船舶の指標の役割をしています。宿泊施設があり、体験学習場として人気が高く、年中利用客の足が途絶えません。


慶尚南道(梁山市 )

ベネコルは嶺南アルプスの心臓部に位置し、澄んだ渓谷の周辺には野生の梨(배:べ)の木がたくさん育っていることからベネゴルと言われ別名二百里とも言われています。ここは神仏山∼霊鷲山の南アルプスと、密陽の天皇山∼載薬山をつなぐ西アルプス間の二十里ほどの渓谷で避暑シーズンには多くの人々が訪れます。


慶尚南道(統営市 )

市民文化会館は近接する南望山彫刻公園とも良く調和を成しており、各種公演や展示を通して優れた作品を共有すると共に、地域の文化芸術に携わる人々と市民たちに創作の空間を提供することをもって、名実共に文化と芸術の場としての地位を確固たるものとしている多目的文化空間です。