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ソレマウルにフランス人が居住し始めたのは1985年に在韓フランス学校がここに移転してきてからです。2008年を基準に、韓国に居住しているフランス人約1000人のうち、半分がここに住んでいます。ソレマウルがフラン人たちの居住地となって自然にグローバルビレッジとなり、他国の外国人たちもソレマウルに住むようになりました。さらに、地理的にもビジネスの中心街である江南に近く、良才川、漢江公演など快適な環境で韓国人、外国人に人気の場所です。 ソレマウルに入ると、ソウルフランス学校があります。フランス語で「Attention ecole(学校の前注意)」という道路標識を目に入ってきます。ソレマウルのPASORCROISSANTは少し特別で、朝になるとフランスから直接輸入した材料でフランス式のバゲットの味を再現した商品が並び、フランス人たちがパンを買いに訪れます。また、ソレマウルにあるお店は素朴ながらもかわいらいしい、ヨーロッパの小さなお店をそのまま再現したお店が並んでいます。  


仁川(江華郡) , 江華島

喬桐島(キョドンド)は江華郡の北西側に位置する島で、2014年7月に喬桐大橋が開通し、便利に行き来できるようになりました。高句麗時代には高木根県と呼ばれていたところで、新羅時代の景徳王のときに喬桐に改称されました。高麗時代には碧瀾渡(黄海道の礼成江下流にあった高麗時代の国際貿易港)に行く中国の使臣が滞在し、国際交易の経由地となっていたところです。


忠清南道(礼山郡 )

朝鮮時代末期の実学者・李重煥は、『択里志』で内浦の地が忠清道でもっとも住みやすいところだと記しました。内浦の地とは現在の礼山です。礼唐観光地は、現在、国民観光地指定面積である5万6千坪の中の1万3千坪が造成されています。主要施設は食堂、旅館、各種便宜施設などで利用しやすく、現在まで登山路や駐車場施設などの6つの施設の造成が完了しており、テーマのある観光地へと変化しています。特に、礼唐貯水池周辺の散策路や八角亭は、釜山の太宗台のような趣が感じられるように造成されており、家族で散策したり、友達やカップルで訪れるのにもぴったりです。一年を通して釣り客で溢れ、夏には近くの住民も訪れており、人々が大勢訪れる観光名所として知られています。★釣りについて1962年に造成された韓国でもっとも大きな貯水池である礼唐貯水池は、礼山郡と唐津郡の農耕地に水を供給しており、礼山郡と唐津郡の最初の一字を取って礼唐貯水池と名づけられました。中部圏最高の釣り場として知られており、冬場は氷上釣りが楽しめます。フナ、コイが多く、その他ウナギ、カムルチー、コウライギギ、ドジョウなどが棲息しています。


慶尚北道(星州郡 )


京畿道(抱川市 )

西ソウル湖公園は陽川区新月洞にある公園です。元々1959年に金浦浄水場として始まったこの場所はのちに信月浄水場となり、2009年10月に水と再生をテーマにした環境公園としてオープンしました。富川市とヌンコル山の堺に位置し217,946平方メートルの面積を持つ西南圏最大規模のテーマ公園として生まれ変わりました。飛行機の騒音を活用した音の噴水、抽象美術技法を導入したモンドリアンの庭園、約100人を収容できる食堂などを設置して他の公園とは差別化をはかっています。    


江原道(襄陽郡)

寒渓嶺(ハンゲリョン)は、弥矢嶺、陳富嶺とともに雪嶽山を代表する三嶺の一つとして昔は「小さな嶺」と呼ばれていました。「大きな嶺」の彌矢嶺とともにに嶺東と嶺西を分けるする分水嶺となっています。昔は所東羅嶺と呼ばれ、東海岸地域と内陸地方をつなぐ交通の要所になっていました。1971年12月に襄陽と麟蹄を結ぶ広い舗装道路が開通し、内雪嶽と外雪嶽の観光道路になりました。 寒渓嶺道を降りて行けば五色地区です。五色ではすべてのものが五つです。岩盤から炭酸水が湧く五色薬水も味が五つといわれます。宝物第497号三層石塔が残っている城国寺の昔の名前は、石までも五色の光りを放つという意味で五色石寺だったといいます。五色という村の名前も、五つの花が咲く木があったという五色花伝説からついたものです。


京畿道(坡州市 ) , 坡州(ヘイリ村)


大邱広域市(達城郡)

達城韓日友好館は金忠善将軍(日本名:沙也可 / 1571-1642)の博愛思想を称え、韓日両国の友好増進のために造られたもので、2012年5月3日にオープンしました。金忠善は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)に参戦しましたが、朝鮮の文化に感動して自分の部下とともに朝鮮に帰化し、火縄銃の製作技術を伝えたり、慶州、蔚山の戦闘で大きな功を立てたりしました。 現在、達城韓日友好館には金忠善将軍の精神を称えて大勢の日本人が訪れています。展示館、3D映像館、茶道室、遺物展示、韓日両国伝統ノリ(遊び)、和歌山県資料室、伝統弓体験場など、様々な施設が無料で利用できます。


全羅北道(長水郡 )

論介生家は、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時に殉死した論介を称え作られました。壬辰倭乱の時に倭軍が晋州城を占領すると、論介の夫である崔慶会将軍は川に身を投げ殉死し、論介は夫の仇を討つために妓生と偽り倭軍の宴会の席に参加し、酔った倭軍の将軍を抱きながら川に身を投げて殉死しました。論介生家は、2棟の建物からなる「一字型」の草葺の家で、石垣で囲まれており、部屋の中には掛け軸や寝具、書籍などが置かれています。また、生家址があった地域は徳裕山、梧洞堤など周辺の景観が美しく、長安山国立公園や知止渓谷、トンファダムを繋いだ登山コースがあり、論介生家と関連した観光コースとして1年を通して多くの観光客と登山客が訪れます。