釜山広域市(影島区)

「釜山大橋(プサンデギョ)」は、1934年竣工した影島大橋とともに影島と陸地を繋ぐ交通道路であり、朝鮮工業団地および新興港湾に成長する指導地区の物流を迅速に処理する産業道路兼臨港道路としての機能を発揮しています。長さ260メートル、幅20メートル、4車線の車道と両側に幅2メートルずつの歩道があり影島大橋の東側に100メートルほどの間隔を置いて平行して架設され釜山の観光名所にもなっています。


慶尚北道(安東市 )

安東民俗村(アンドン・ミンソクチョン)は安東民俗博物館の野外博物館で、安東ダム建設で水没した地域から移された茅葺の家や韓屋(瓦屋)などの文化財があります。 民俗村の入り口には二つの大きな長承(丸太に人の顔をこっけいに彫ったもの)があり、その横には安東出身の有名な詩人李陸史(1904-1944)の詩碑があります。詩碑には代表作「広野」が刻まれていて、詩碑の後ろに続く坂を進むとドラマ「太祖王建」の撮影地があり、撮影に使われている高麗時代の役所、牢獄、民家など20数件の建物があります。慶尚北道聞慶と忠清北道堤川から慶尚北道安東にかけての一帯がドラマの撮影地として選ばれたのには歴史的な背景があります。安東の豪族たちは王建(高麗の初代王、在位918-943)が高麗(AD918-1392)を建国するにあたり彼を支持したのです。 安東民俗村の近くには安東民俗博物館、ドラマ「太祖王建」の撮影地、安東湖などがあります。これらをじっくりと見るなら半日ほどかかるでしょう。


慶尚南道(晋州市 )

南江沿いの岩の絶壁に厳かに高くそびえ立っている矗石楼は、嶺南で一番美しい楼閣であるといわれています。1241年に建てられ、8回に渡って追加建設と補修を繰り返したこの楼閣は、晋州城の南将台として将元楼とも呼ばれました。戦争が始まると晋州城を守る指揮本部にもなり、平和な時期には考試場としても使用されました。韓国戦争の時に焼けてしまったものを市民が力を合わせて晋州古跡保存会を作り、1960年に復元しました。建物は高床式になっており、楼閣の下の石の柱は昌原の矗石山から採石し、木材は江原道五大山から持ってきたものを使用し、楼には4つの扁額と詩が書かれた板がかけられています。毎年秋には「晋州南江流灯祭り」が開催されます。


忠清南道(泰安郡 )

泰安から18km程離れていて、砂浜が2km、幅100m、面積231,406m²(7万坪)、傾斜2度、平均水深1~2m、水温22度の海水浴場です。万里浦は潮の満ち引きが激しい方ですが、広く遠方を見渡すことができ、後方には松林が青々と茂っており、特に夕日が絶景です。約7,000種類の植物が展示された植物園もあります。万里浦海水浴場は泰安郡を横断する国道32号の最終部分にあり、泰安八景第一景と呼ばれるほど美しい景観が有名な場所で、泰安海岸国立公園としても指定されています。


大田広域市(東区)

尤庵史跡公園(ウアムサジョクコンウォン)は朝鮮末期の大儒学者である尤庵・宋時烈(ソン・シヨル / 1607~1689)が学問を修めた場所で、1991年から1997年まで蔵板閣、遺物館、書院などの建物を再現し、1998年4月17日に史跡公園として新しくオープンしました。ここには宋時烈が晩年に弟子を教え、学問に精進した「南澗精舎」や、建築美が素晴らしい「杞菊亭」、宋時烈の文集である『宋子大全板』など、歴史的に重要な文化財が保全されています。また、尤庵史跡公園は隅々までよく整えられているため、市民たちの憩いのスペースとなっています。


忠清南道(牙山市 )

天安牙山駅は高速鉄道(KTX)の開通に合わせて誕生した駅です。行政区域上は天安市と牙山市にまたがっているため、2つの都市名を合わせた駅名となりました。


慶尚北道(慶州市 )

慶州民俗工芸村(キョンジュ・ミンソク・コンイェチョン)吐含山の観光道路周辺には、昔の様子を生かした伝統的な瓦葺の家と藁葺きの家が45棟もあります。大切に保存しなければならないご先祖様の精神や趣や腕前を受け継ごうと作られた2万坪の匠たちの村です。ここでは、金属、陶磁器、木工、宝石、石工、刺繍、土器工芸など、18の工房の製造過程の観覧及び民俗工芸展示館を無料で観覧することができ、生産者から安い価格で直接購入することもできます。


慶尚南道(金海市 )

金首露(キム・スロ)王の王妃、許黃玉(ホ・ファンオク)の墓、首露王妃陵 金海市亀山洞にある伽倻時代の陵墓で駕洛国の始祖金首露の王妃である許黃玉の王妃陵(国家史跡第74号)です。大型の円形土墳で陵墓の前面には長大石を積み、周囲には広範囲にわたり低い石垣を積んでいます。1647年の修築時に造った陵墓の前の石には「駕洛国首露王妃 普州太后許氏陵」と刻まれています。 境内には崇報斎、外三門、内三門、紅一門があり、平地にある墓とは違い丘に位置しています。墓の前にはインドから持ってきたと伝えられる婆娑石塔があります。1446年に首露王陵と共に保護区域が広げられ、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の時に盗掘されたという記録が残っています。現在の碑石などは1641年の再整備の際に設置されました。 首露王妃である許黃玉とは 首露王妃の名前は許黃玉といい、首露王即位7年(西暦48年)に船に乗って駕洛国に来て王妃になり、西暦189年に亡くなったと言われています。現在の陵墓は1641年に修築され今の姿になりました。王妃が亡くなる直前に2人の息子に許氏を名乗らせたことから金海の許氏の始祖となりました。  


慶尚北道(聞慶市 )

聞慶(ムンギョン)陶磁器の価値が年々注目を浴びてきています。それは陶芸家個人の技能ももちろんですが、その技能の底辺に聞慶陶磁器の特徴と言える歴史と伝統があるからです。聞慶には重要無形文化財「沙器匠(サギジャン)」と技能人最高の栄誉である陶芸部分の名匠がいます。聞慶は朝鮮王朝初期に粉青沙器という器の陶窯地として有名な場所でした。聞慶陶磁器にはいまだ昔の陶工たちの魂がそのままこもっており、民族の純朴な心が深く染みついていて色彩や形が自然で美しいと言われています。