蔚山広域市(北区)

群青色の波が岩にぶつかりしぶきを上げる荒々しい海に出会える場所です。韓国で海といえば束草、江陵、東海、三陟がある江原道が思い出されますが、蔚山の朱田(チュジョン)から慶山北道の甘浦(カンポ)にいたる海岸にも江原道と同じくらい多くの人びとが訪れます。 特に山と海に挟まれた国道は人気のドライブコースで、周辺に見どころが多いこともあり冬の観光地として人気があります。朱田を出発し、蔚山の海を見ながらきれいな海岸道路を北に20分ほどドライブすれば亭子(チョンジャ)海岸に至ります。 村の入り口にはメウンタン(魚の辛口鍋)や刺身の専門店が軒を連ね、呼び込みと客のやり取りの風景が見られます。また生きた魚貝が動く様子を眺めながら歩けば、名物のイワシの刺身の味見を勧められることも。夕方になり大漁船が港に着くとたちまち活気付きます。明け方港を発った船が夕方に戻るのです。大漁旗に多くの人が駆けつけ、空はカモメが元気いっぱいに飛び交い、その羽の隙間から日光が差し込みます。


全羅南道(順天市 )

三山二水の小江南だと称される順天という地名は、百済時代後期この村の貴族だったパク・ヨンギュとキム・チュンが名づけ、順天駅はその地名から取り1930年10月25日に開通しました。2012年麗水海洋エキスポと2013年順天国際庭園博覧会が開催されるにあたり2009年12月22日新駅舎に移転をし、東部陸軍の交通要衝地としての役割を果たしています。


慶尚南道(昌原市 )

昌原競輪場(チャンウォン・キョンリュンジャン)は国内最初の全天候のドーム競輪場です。サイクル競技の種類は大きくサイクル専用競技場でベロウドロムで実施されるトラック競技種目と道路で実施される道路種目、そして山岳コースで試行されるMTB種目があります。2000年 シドニーオリンピックから競輪もトラック種目に含まれオリンピック正式種目に採択され、試行されました。7名の選手が出戦、強靭な体力と頭脳プレイで6周の競走路を周り順位を競う科学的なレジャースポーツです。優勝予想選手の競走券を買い、勝者を的中させると配当金を受け取れます。


京畿道(加平郡) , 南楊州

北面の道大里にある明智山は京畿道で二番目に高い山で、頂上から東に伸びた渓谷が明知渓谷です。高さは10m程ですが、水量が多く、岩の間を力強く流れ落ちていく姿が圧巻です。下には青い沼があり、滝が落ちる様子は、岩で作った瓷に水を注いでいるかのように見えます。明知瀑布を含む登山路に沿って続く明知渓谷は、加平の数ある渓谷のうちでも一、二を争うほど美しい名所と言えるでしょう。


全羅南道(康津郡 )

韓国の西南部の海岸の最南端にある馬良港は日の出の名所として知られています。馬良港は昔から西海で運航している船舶にとっては重要な漁業場所でした。馬良港一帯で生産される海苔は味が良く漁民達にとって重要な生活収入手段であり、朝鮮時代には王に献上した品物であもありました。また、秋にはここでコノシロ祭りが行われます。


江原道(寧越郡)

江原道寧越郡の高氏窟(コッシグル)は長さおよそ6kmの石灰岩の洞窟で、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)当時に高氏の家族が身を隠したことから高氏窟と呼ばれるようになりました。 約4億年前から形成が進み、内部には多様な鍾乳石と石筍、4つの池と3つの滝、6つの広場があり24種の微生物がいるほか、高氏の家族が避難生活で火を燃やした痕跡が今も残っています。洞窟の周りには遊戯施設、土産店、郷土料理店、宿泊施設などがととのっています。


江原道(鉄原郡)

月井里駅は非武装地帯の南方限界線の最も近くにある最後の駅です。駅の向かいには「鉄馬は走りたい」と書かれた看板と、韓国戦争(1950~1953)の時に爆撃で壊れてしまった列車の残骸が残っています。当時、北韓軍が撤収する際に列車の前方部分だけを持ち帰り、客車として使われていた後方部分だけが残りました。最も熾烈な戦いが繰りひろげられた鉄の三角地に位置する月井里駅(鉄の三角展望台)。動かない列車が分断の悲しさを物語っています。


忠清南道(洪城郡 )

季節の変化により鳥棲山の表情が変わるのに合わせて、境内の雰囲気もさまざまに変化する浄厳寺。 鳥棲山の名物は毎年秋になると山を白く染める葦畑です。鳥棲山の葦畑はとても広く山の中腹をほとんど覆ってしまうほどで秋には葦祭りが開かれたりします。多くの写真家たちが風に乗って揺れる葦の趣ある姿に心を奪われ、何度も何度もシャッターを押し続ける、そんな場所です。それほど鳥棲山の秋は葦と共に深くなってゆきます。 その鳥棲山の中腹に位置する浄厳寺は典型的な田舎のお寺のように規模が大きくないにもかかわらず、民間人の教化に関心の深い住職のおかげでしっかりした造りになっています。 * 歴史 浄厳寺の創建と沿革を伝える資料はほとんど残っていません。527年(百済 聖王5年)の創建説が有力ですが根拠はまだ見つかっていません。ただ、『輿地図書』の「結城県」 に収録されている短編記録、“浄厳寺は鳥棲山にある”、“鳥棲山は鴻山から白月山へ続き洪州、結城、保寧の3つの地域の境界線をつくっている”という内容から18世紀半ばに鳥棲山が存在していたことが確認できるだけです。また、18世紀後半に編纂された『伽藍考』にも“結城県の東側28里の地点に浄厳寺がある”という記録があるのですが、これが鳥棲山の浄厳寺のことなのかどうかはっきりしていません。


慶尚南道(居昌郡 )

処容岩(チョヨンアム)は、6坪ほどのとても小さな岩の島で、化け物を退治する効力があるという処容符籍(お守り)と関連する説話が伝わっています。また、「三国遺事」に記録されている処容郎の説話とも関係がある由緒深い岩です。 新羅第49代王の憲康王がこの地に遊びにやって来て水辺で休んでいたところ、昼間であるにも関わらず突然雲と濃い霧に覆われてしまい、道を見失ってしまいました。日官が東海の龍が不思議な変化をもたらしているため、良い行いをしてそれを解かなければならないと言いました。そこで王は、この近くに龍のための寺を建てるように命じると、雲と霧が晴れました。この寺というのが現在、蔚州郡青良面に址がある望海寺です。また、雲と霧に覆われた王が休んでいた水辺とされる場所は現在、開雲浦と呼ばれています。東海の龍の王は非常に喜び、王子7人を引き連れてやって来て踊りを踊り、音楽の演奏をしました。そのうちの1人の王子は王様について新羅の首都である慶州まで行き、国の政を助けたとされています。それが処容郎です。 王は処容に美しい女性を妻としてあてがい、級干という官職まで与え、王の側に置いておいた。しかし、美しい処容の妻を慕っていた疫神が人に化け、夜に忍び込み処容の妻の横で横になった。そんな様子を見ても処容は怒ることなく、歌を歌い、踊りを踊りながらその場を去った。そうするや疫神は処容の心の広さに感激し、今後は絶対に近づかないと誓ったとされています。この時、処容が歌った歌が有名な新羅郷歌の「処容歌」で、処容岩にもその歌詞が刻まれた碑石があります。 また、処容が踊った舞は重要無形文化財第39号に指定されています。 処容岩は、東海龍が7人の息子を引き連れて出てきた開雲浦聖地の岩であり、地方記念物第4号に指定されており、処容の説話と共に人々に知られています。