慶尚北道(安東市 )

1830年代、安東(アンドン)地方にはさまざまな五日市がありました。 具体的には府内場(プネジャン)と新塘場(シンダンジャン)を中心とし、2と7がつく日に開かれた豊山場(プンサンジャン)、5と0のつく日に開かれた鞭巷場(ピョンハンジャン)や山下里場(サンハリジャン)、1と6がつく日に開かれた礼安邑内場(イェアンウプネジャン)、3と9がつく日に開かれた瓮泉場(ウンチョンジャン)、6と0がつく日に開かれた九尾場(クミジャン)・迂川場(ウチョンジャン)などが安東地域の市をなしていました。 そして1909年、安東の市場は、2と7がつく日に開かれた府内場が最も大きな市として栄え、農産物、牛、魚、そして特産物の安東布や安東焼酎などが活発に取引されました。 1963年、安東邑が安東市に昇格すると、府内場と新塘場は常設市場となりましたが、1995年に統合・安東市がスタートして以降も、ここ安東地域には、豊山場、 新市場、九潭場(クダムジャン)、 中里場(チュンニジャン)、 雲山場(ウンサンジャン)、吉安場(キランジャン)、松仕場(ソンサジャン)、 元川場(ウォンチョンジャン)、禄転場(ノクジョンジャン)、 西部場(ソブジャン)といった五日市が残っています。 しかし豊山場と新市場以外はその規模も大変小規模となっています。 安東市内の代表的な市場としては旧市場、新市場、北門市場、 西部市場があります。安東の市場でよく売られている商品といえば安東特産の麻織物・サムベ。安東はサムベのふるさとで、安東サムベは吸水性と通気性に優れ、それでいて丈夫で、夏の伝統衣服の生地としては忠清南道(チュンチョンナムド)韓山(ハンサン)の苧(カラムシ)とともに韓国有数の天然生地に数えられています。 粘土と砂が混じるこの地域の土壌は、背が高く、節が均一のサムベが育つのに適した場所となっています。この安東布の価格は布の厚さや色により違いがあります。


慶尚南道(南海郡 )

南海(ナメ)は韓国で5番目に大きな島です。南海大橋で陸続きとなっているため「南海島」と呼ばれることは少なく、普通は島を省いて「南海」と呼ばれます。南海の南西に位置する加川村(カチョンマウル)に行く道路は、閑麗(ハルリョ)海上国立公園の美しい海が眺められる最高のドライブコースとなっています。加川村の昔の地名は間川(カンチョン)といい、村の両側に川があることに由来しています。村の両側には棚田があり、狭い土地を活用して生活する様子を垣間見ることができます。加川村は映画『インディアン・サマー』のロケ地として有名で、ここで主人公がアイスクリームを食べながら歩くシーンと学校のシーンが撮影されました。


江原道(江陵市) , 江陵

クッパは韓国風の牛肉スープ料理でご飯が入っています。江原道のガンヌン市に位置した韓食専門店です。おすすめは牛肉クッパです。


慶尚北道(醴泉郡 )

「回龍浦(フェリョンポ)」は乃城川が醴泉郡龍宮面で太極模様のように流れ、砂浜ができたところで、その中に村が形成されています。乃城川および洛東江上流一帯に分布する嵌入曲流地形のうち、風景が特に美しく、名勝第16号にも指定されています。村の向こう側にある飛龍山の展望台「回龍台」にのぼると周辺の景観を一望できます。 撮影地 KBSドラマ『秋の童話』


全羅北道(任実郡 )

任実筆峰農楽保存会は、筆峰文化村の名所である韓屋「取楽原」を韓屋ステイとして営業している。取楽原では2人室、3人室、5人室、団体室など、人数によって宿泊が可能だ。取楽原には全部で11室の客室があり、韓屋ながら中にシャワーができるバストイレがあるので便利だ。 2人室は全部で3つで、ワンルームタイプでキッチンは付いていない。4人室は2つで、ネドゥリムバンは中にバストイレはもちろん、キッチンがあるので調理が可能だ。一方、サチェバンにはキッチンがない。5人室は2つあるが、オチェバンは部屋が2つあり、ユクチェバンはワンルームで調理はできない。8人室は全部で3つで、それぞれ構造が少しずつ異なる。ウォナンソリは、部屋2つにキッチン、バストイレが付いている貸し切りタイプの韓屋だ。チルチェバンは部屋が2つで、タドゥレギバンは部屋が3つ、全部中にキッチン施設が設けられているので調理が可能だ。取楽原で最も大きい貸し切り韓屋であるアンチェバンは13名が泊れる大きさだ。部屋とバストイレが2つで、屋根裏部屋があり、キッチン用品が揃っているキッチンがあるので料理が可能だ。全客室には基本備品として冷蔵庫と電気ポット、ドライヤーなどが備えられている。その他にも筆峰文化村の中にあるレストランに予約すると食事ができる。グリルもレンタル可能だ。 筆峰文化村の中は楽しめるものでいっぱいだ。筆峰文化館とミニ図書館、室内公演会場のテドン館、野外公演会場のクッサンデ、風流マダン、韓屋マダンなどがあるが、ここでは毎週木~土曜日に任実筆峰農楽をテーマにした常設公演が開かれる。クッカフェと東屋ヨユ亭で休息を取ることもできる。近隣のおすすめ観光地には、玉井湖、国立回文山自然休養林などがある。


慶尚北道(安東市 )

安東(アンドン)河回村・玉淵精舎(オギョンチョンサ)は西厓(ソエ)・柳成龍(リュ・ソンニョン)(1542~1607)が日ごろ親交のあった僧侶・誕弘(タンホン)の援助を受け建てたもので、学問を究め弟子を養成する所でした。 西厓・柳成龍先生は遠志精舎(ウォンジチョンサ)を建てた後、人々が住む村に近く騒々しく奥ゆかしい雰囲気が感じられないとして、川向こうの芙蓉台(プヨンデ)の麓の土地を手に入れ建物を建てようとしましたが、暮らし向きがよくなく精舎を建てることが出来ませんでした。 そのことを知った親交のある僧侶・誕弘が、建物の建築を引き受け資金面でも援助することを申し出、1576(宣祖9)年に着工し10年かけて西厓・柳成龍先生が45歳の時である1586(宣祖19)年にようやく完工しました。 先生はその後、芙蓉台(プヨンデ)の西側の麓にある兄(謙菴・柳雲龍先生)の亭子(東屋)である謙菴精舎(キョマムチョンサ)を芙蓉台の崖の縁に作った細いの道を歩いて行き来し、兄弟の情を深めたといいます。 そして1605(宣祖38)年、洛東江(ナクトンガン)の大洪水により河回にあった3間の広さの草葺の家屋を失いこの精舎に隠居、壬辰の乱(日本で言う「文禄・慶長の役」)を回顧し懲毖録(国宝132号)を書き上げました。 玉淵精舎の洗心斎(セシムジェ)の建物は瞰録軒(カムロクホン)と名付けられた板の間を中心に左右に1部屋がある西厓・柳成龍先生が朝鮮時代に基礎教育を行っていた学校・書堂(ソダン)として使っていた建物です。書堂には周経の繋辞の中にある「意或従事於斯 以庶幾萬一爾(ここに心を置き、万に一つでも叶うことを望む)」という一文の意味が込められています。そして瞰録軒と名付けられた板の間は中国の書家・王義之の「頭をもたげ青い空を仰ぎ、下へは青い水を頭を垂れ眺める」という詩から付けられたものです。 遠楽斎(ウォルラクチェ)の建物は西厓・柳成龍先生がこの部屋に起居し懲毖録を書き上げた場所です。友人の来訪を待つという意味を持つ遠楽斎ですが、この名称は論語の中にある「朋有り遠方より来たる、また楽しからずや」という一文から付けられたものです。そして2間の広さの板の間・愛吾軒は陶淵明の「吾亦愛吾廬(吾もまた吾が庵を愛す) 」 という詩から名付けられたものです。


江原道(江陵市) , 江陵

新鮮な刺身が味わえる店です。おすすめは刺身の盛り合わせです。江原道のガンヌン市に位置した韓食専門店です。


ソウル(龍山区) , 梨泰院・龍山

雩祀壇(ウサダン)キルは韓国的な情緒と異国的な雰囲気が感じられる通りです。 雩祀壇通りを歩くとパキスタン、トルコ、エジプト、レバノン、インドなどの各国料理店やアラビア語が書かれた看板をよく見かけたり、ヒジャブやターバンを身に着けた人々が行き交うなど異国の雰囲気が色濃く見受けられますが、その一方で、古くなった家屋や路地がひしめき合う住宅街もあり、韓国的な雰囲気もいまだなお残っているエリアです。 2010年代初めから若手アーティストや若手事業家らがこの雩祀壇キルで商売や創作活動をし始め、個性あふれる空間に生まれ変わりました。


全羅南道(木浦市 )

儒達山に位置している公園、達城公園 木浦市は韓国で最南端の港湾都市で儒達山と湖南の沃地を横断して流れた栄山江、そして絵画のような多島海が調和をなす地域です。儒達山は霊魂が通り過ぎる所だとされ霊達山とも呼ばれました。儒達山のすそにある達城公園は先祖達の霊が宿り風流のある自然と芸術が共に調和をなした憩いの場で、頂上への登山、多島海から市街地を展望することができる公園です。近隣には儒達寺という古いお寺があります。大韓仏教曹渓宗大屯寺の末寺で本来、大原寺と言われていました。お寺の創建については朝鮮末期の創建説及び1913年の創建説などがありますが、1913年4月初八日(釈迦の誕生日である陰暦4月8日)に大屯寺にあった盧大蓮禅師がこの場所に来て創建したという説が有力です。   達城公園が位置する儒達山について 儒達山は面積140ヘクタール、高さ228.3mでさほど高くはありませんが、蘆嶺山脈の一番最後の峰であり多島海につながる西南端の地の果ての山です。儒達山は昔から霊魂が通り過ぎる場所とされていて霊達山とも呼ばれており、都心の中に高くそびえ立つ木浦市と多島海を一目で見下ろすことができるこの場所は人々の霊魂を絶えず呼び覚ましていると言われています。儒達山には待鶴棲、達城閣、儒仙閣など5箇所の亭子があり、山の麓には歌手イ・ナンヨンが歌った「木浦の涙」の記念碑などがあります。