ソウル(鍾路区) , 仁寺洞・鍾路

弘智門(ホンジムン)と蕩春台城(タンチュンデソン)は、壬辰倭乱(日本で言う「文禄・慶長の役」)及び丙子胡乱の後、都を守る目的で、囲むように築かれた城郭・ソウル漢陽都城(ハニャントソン)と、その北方の山中にある北漢山城(プカンサンソン)をつなぐため築かれた建造物です。 1719(粛宗45)年、都を取り囲む都城と都の北にある北漢山城の守りを補完すべく、弘智門、五間水門(オガンスムン)、蕩春台城を築造しました。 弘智門は、現在のソウルの北西の守りにあたる城壁・蕩春台城への入口となる門として築かれ、漢北門(ハンプクムン)とも呼ばれています。この弘智門からつながる蕩春台城の城郭は、都の西にあることから、西城(ソソン)とも言われました。 元々、蕩春台城がある洗剣亭(セコムジョン)一帯は新羅・高句麗・百済が群雄割拠していた三国時代の時から漢山州(ハンサンジュ)として、軍事的要所となっている地域でした。 蕩春台城は、仁王山(イナンサン/インワンサン)の頂を通るソウル漢陽都城から弘智門を経てスリ(チョクトゥリ)峰に至るおよそ4kmほどに築かれた城郭です。 * 蕩春台城 蕩春台城は、ソウル漢陽都城と北漢山城をつなぐ城郭で、仁王山の北東側から、北の方角に稜線伝いに下り、水無川を過ぎて三角山(サムガクサン=北漢山の最高峰・白雲台)の南西・碑峰(ピボン)の麓まで続いています。 この城郭は当初計画していたすべての区間が築かれず、東側の部分・北漢山城の普賢峰(ポヒョンボン)から兄弟峰(ヒョンジェボン)を経て北岳(プガク)トンネルのすぐ北・補土峴(ポトヒョン)を通り、狗蹲峰(クジュンボン)の西側からソウル城郭へと続く城郭の部分は未完のままま終わってしまいました。 この城郭の名称が蕩春台城となったのは、現在、洗剣亭がある場所のおよそ100mほどの小高い山の頂に、朝鮮時代第10代の王・燕山君(ヨンサングン=在位1494~1506年)が宴に耽る蕩春台があったことに由来しています。 また、蕩春台城は、都城の西側にあることから西城、あるいは二重に城郭を築いたことから重ねて築く城郭という意味でキョプソンとも呼ばれました。 蕩春台城の稜線伝いの道はなだらかで、上りやすい小道となっており、山登りを兼ねて歴史探訪にもおすすめのコースです。 蕩春台城に上るには、洗剣亭、祥明(サンミョン)大学校や旧基(クギ)トンネル、弘恩洞(ホンウンドン)から山に入ると、比較的楽に上ることができます。 蕩春台城は、弘智門と五間大水門(オガンデスムン)を境に、大きく二つの地形に分かれます。弘済川(ホンジェチョン)の流れを境に南西の区間は、仁王山を横切るソウル漢陽都城から北へと枝分かれする稜線上に築城され、また北東方向へ伸びる区間は北漢山国立公園内の蕩春台稜線を、標高527.5mの碑峰に向かって築城されています。 仁王山の周囲は、ソウル漢陽都城から枝分かれした地点から急傾斜の地形となっており、松の木が生い茂る稜線には土塁が築かれています。土塁は北の方角へと続き、城郭の外側に突出した岩盤の稜線に交わるよう築かれています。 * 弘智門 弘智門は、朝鮮時代第19代の王・粛宗(スクチョン=在位1674~1720年)が自ら筆を持ち書いた親筆で「弘智門」という扁額を書き、門楼に掲げられていた由緒ある城門です。 しかし、1921年に発生した洪水により弘智門は崩れ、長い間放置されていました。 およそ50年後の1977年7月になり、ソウル特別市都城復元委員会の手により、長きにわたり放置されていた弘智門、五間大水門、そして周辺の城郭280mを復元することができました。 この復元の際、弘智門の扁額は新たに作り替えられ、当時大統領だった朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の直筆が刻まれました。 弘智門は石で築いた虹霓(ホンイェ=虹)形の陸築の上に、正面3間、側面2間(9.38m X 4.02m)の寄棟屋根の平屋の門楼があり、門楼の左右には夾門(ヒョンムン=脇門)を設け、さらに土を高温で焼いて作った瓦を積み上げ姫垣を造り、楼閣の周りを囲っています。 石で築いたアーチ型の陸築の出入口の前後には鉄葉(チョリョプ)という門に取り付ける鉄製の飾りを付けた門扉があり、陸築の左右には城郭に上ることができる階段があります。 弘智門は首都・漢城(ハンソン=現在のソウル)の北側にあったことから「漢北門(ハンブンムン/ハンブクムン)」とも呼ばれました。 1999年には、城門の鮮やかな韓国伝統の塗装様式・丹青(タンチョン)や門扉をはじめ、門楼の左右にある夾門を補修しました。 祥明大学校前から降りていくと弘智門へと向かう道があり、道のすぐそばを流れる小川に従って歩いていくとおのずと弘智門へと向かっていきます。 弘智門からは山へと続く城郭・蕩春台城へと続いています。急斜面を山の頂へと伸びる都城は古の時代の都城の姿をいまに残しています。


全羅南道(木浦市 )

儒達山に位置している公園、達城公園 木浦市は韓国で最南端の港湾都市で儒達山と湖南の沃地を横断して流れた栄山江、そして絵画のような多島海が調和をなす地域です。儒達山は霊魂が通り過ぎる所だとされ霊達山とも呼ばれました。儒達山のすそにある達城公園は先祖達の霊が宿り風流のある自然と芸術が共に調和をなした憩いの場で、頂上への登山、多島海から市街地を展望することができる公園です。近隣には儒達寺という古いお寺があります。大韓仏教曹渓宗大屯寺の末寺で本来、大原寺と言われていました。お寺の創建については朝鮮末期の創建説及び1913年の創建説などがありますが、1913年4月初八日(釈迦の誕生日である陰暦4月8日)に大屯寺にあった盧大蓮禅師がこの場所に来て創建したという説が有力です。   達城公園が位置する儒達山について 儒達山は面積140ヘクタール、高さ228.3mでさほど高くはありませんが、蘆嶺山脈の一番最後の峰であり多島海につながる西南端の地の果ての山です。儒達山は昔から霊魂が通り過ぎる場所とされていて霊達山とも呼ばれており、都心の中に高くそびえ立つ木浦市と多島海を一目で見下ろすことができるこの場所は人々の霊魂を絶えず呼び覚ましていると言われています。儒達山には待鶴棲、達城閣、儒仙閣など5箇所の亭子があり、山の麓には歌手イ・ナンヨンが歌った「木浦の涙」の記念碑などがあります。  


ソウル(中区) , 乙支路・忠武路・南山

3.1独立運動記念塔は日本帝国主義の残酷な植民統治から祖国と民族の独立のため展開した3.1独立運動の崇高な精神を継承・発展させ、広く国民の護国愛国精神を高揚させることも目的に、全同胞の善意を集めソウル特別市中区(チュング)奨忠洞(チャンチュンドン)南山公園(ナムサンコンウォン)に建立されました。 1998年8月15日の大韓民国政府樹立50周年にあたる日に着工、3.1独立運動80周年を迎えた1999年3月1日に竣工しました。 塔の高さは19m19cmで、これは3.1独立運動の挙事が起きた1919年にちなんでいます。 3.1独立運動は世界初の非暴力平和運動であり、世界初のカトリック・プロテスタント・仏教の宗教連合運動でもあり、中国の5.4運動、インドの無抵抗運動をはじめ全世界の非暴力平和運動の契機となりました。 * 建立者 - 光復会(3.1独立運動記念塔建立委員会)


全羅北道(群山市 )

日帝強占期に群山で大規模農場を経営していた日本人の大地主、熊本利平が建てた別荘で、一年で春と秋に農場を訪れた際に一時的に使用していました。西洋式、日本式など様々な建築様式が折衷されて建てられたのが特徴で、終戦後、韓国農村保健衛生の先駆者である李永春博士が居住したことから、李永春家屋とも呼ばれています。美しい建物の外観は「氷点」、「砂時計」、「野人時代」など数多くの映画とドラマの撮影場所となりました。李永春博士は、韓国のシュバイツァーと呼ばれ、平安南道龍岡郡で1903年10月に生まれました。平壌高等小学校司法科時代の担任だった京城帝大の渡辺教授の紹介で熊本農場に所属する約2万人の小作農家族を世話するために1935年4月、33才という若さで慈恵医院長として赴任することになりました。李永春は韓国で最初の看護教師と医療保険組合を実施しました。


仁川(中区)

仁川国際空港から程近い仁川広域市西区雲西洞(ウンソドン)にあるハブゲストハウス(Hub Guest House)は2階建てのビラ形式の住宅です。 韓国に入国する外国人旅行客や出国前の韓国人旅行客が主な宿泊客のため基本的な施設・サービスが整った宿泊施設です。余計なものはなく整理整頓の行き届いた客室で、外国からのお客様に韓国のよい第一印象を持っていただけるよう清潔さを最優先にしています。 共用キッチンでサービスされる食パンは当日残ればすべて廃棄し、トイレットペーパーも品質のよいものだけを使用しています。 仁川国際空港から空港鉄道もご利用いただけますが、バスがハブゲストハウスの近くまで来るので、バスの利用をおすすめします。 お荷物の多いお客様のためにピックアップサービスも行っています。


全羅南道(順天市 )

品質の良い韓牛が味わえて、お集まりに最適な店です。おすすめは霜降り牛ロースです。全羅南道のスンチョン市に位置した韓食専門店です。


慶尚北道(奉化郡 )

慶尚北道奉化郡(ポンファグン)パレミ村にある古宅・所岡古宅(ソガンコテク)。「パレミ」は海だったところという意味で、60年ほど前まででも村の田んぼや水たまりから貝が出てきたそうです。村全体に伝統的な韓屋が軒を連ねるこの村は、1992年に慶尚北道が伝統文化村として指定、以降大切に保護・保存されています。 所岡古宅は築約110年の古宅です。これを証明するかのように古くなった瓦でのみ育つ瓦松(ツメレンゲ)があちらこちらで見受けられます。オーナーの曽祖父である南湖(ナモ)金賚植(キム・レシク)が、次男・所岡(ソガン)金昌祺(キム・チャンギ)の分家の際に建てた家で、長男に引き継がれた南湖旧宅はちょうどその裏手にある建物がそれです。 名望高き富豪であった金賚植は自らの全財産を担保に借金をし、大韓民国臨時政府の軍資金を拠出、その功績で1977年、建国功労表彰を受けました。またオーナーの祖父で金賚植の次男である所岡・金昌祺は奉化地域一帯の有名な儒学者で、陶山書院書院長を歴任した人物です。オーナー夫妻は3年前から古宅に戻り、古宅体験事業を支援する政府の支援を受け、建物のあちらこちらを修理し手直しをしました。 大門間(テムンガン)チェの高柱の大門へ足を踏み入れると、前庭と舎廊(サラン)チェの板の間がまず目に入ります。韓屋は中庭を囲むように建てられた伝統瓦葺の家屋で、舎廊チェの建物脇にある離れから母屋に通じる大門と通りぬけていくと、内側にある中庭や母屋が見えてきます。所岡古宅の建物は桟ひとつに至るまで春陽木と呼ばれるアカマツが使用されており、近頃ではなかなかお目にかかれない貴重な木材を使用した建物です。 およそ25年前、オーナーの父親が数千万ウォンを掛けて補修、その後も現在のオーナーが根気よく管理し続けたおかげで古宅としては大変保存状態がよい韓屋となっています。補修する際にはコンクリートなどは一切使わず、建築当時の建材で修復作業をするよう神経を使ったといいます。 客室は全7室あります。男主人が暮らしていた舎廊チェの建物には4~5人が利用できる大きい舎廊房(サランバン)と小さな舎廊房の客室、そして2~3人が利用できる部屋があります。 夏期には小さい方の舎廊房の部屋と舎廊チェの板の間も貸し切り、他の部屋も合わせて借りるとより広々として利用できます。 このほか、女主人が主に昔住んでいたという母屋には3、4人が利用可能な上房(サンバン=昔、男主人の居間だった部屋)があり、高柱の大門の両脇にある門間(ムンガン)チェの建物には2~5人が利用可能な門間房(ムンガンバン)1と2の2室があります。そのうち、門間房1は黄土で床を作った伝統的なオンドル部屋となっています。 また必要に応じて所岡古宅まるごと貸し切ることも可能で、全体を貸し切る場合、夏期には舎廊チェの板の間や板の間の部屋を含めて22~34人前後が宿泊可能です。 朝鮮時代後期の典型的な両班(ヤンバン)の家屋の形態で、管理が行き届ききれいでこじんまりとしたつくりの所岡古宅。昔ながらの扇風機、螺鈿細工の箪笥など素朴な生活用品が使われていた時代さながらに置かれており、また布団はご宿泊のお客様のためにきれいに準備されています。大きな方の舎廊房の部屋と小さな方の舎廊房の部屋には共用の冷蔵庫があり、またWi-fiも設置されご利用いただけます。 伝統文化村に指定されたパレミ村は古宅が立ち並ぶ、空気がたいへん澄んできれいな村です。そのような整った穏やかな雰囲気の中で村を散策し昔ながらの古風な韓屋をゆっくり見て回れます。また所岡古宅への道すがら、あるいは帰路の途中で、韓国で最も古い木造建造物・無量寿殿(ムリャンスジョン)がある浮石寺(プソクサ)、韓国最初の書院である紹修書院(ソスソウォン)、 吾田薬水(オジョンヤクス)、タクシル村、鷲棲寺(チュクソサ)など周辺の有名観光スポットを回ってみるのもおすすめです。 朝食のサービスはありませんが、情に厚いオーナーが時々茹でたトウモロコシやサツマイモ、果物などを提供してくれることもあります。バーベキュー施設も完備しており、夕食時にはバーベキューも楽しむことができます。


全羅南道(木浦市 )

2012年に完工した木浦大橋(モッポテギョ)は、全長4,129m、幅35m~50mの往復4車線の車道があり、木浦北港と高下島(コハド)を結ぶ橋梁です。 夕方になると飛翔する鶴の翼のように美しい木浦大橋と夕陽があいまり、素晴らしい風景となります。 木浦大橋は、木浦市内を走る国道1号線の自動車専用の橋梁で、木浦市内の陸地側・竹橋洞(チュットドン)と儒達洞(ユダルドン)、高下島、そして今では高下島と陸続きとなっている許沙島(ホサド)を結び、木浦新外港や西海岸高速道路とつながる木浦の交通の要所です。 主塔と斜張橋のケーブルの形は、木浦の市鳥となっている鶴が二匹、木浦の海に飛んで行く姿を形状化したものです。


京畿道(安山市)

# 大阜島紙の美術館ペンションは、京畿道安山市にある紙の美術館の中にあります。紙の美術館は、世界の優れたペーパーアーティストらが手掛けた作品を展示する空間です。大きく紙造形美術館、子ども美術館、体験センター(Experience Center)に分かれています。また、作品展示のみならず、様々な体験プログラムも用意しています。ここに、風情ある韓屋ペンションがあります。江原道産の松の木と1000度以上で焼いた瓦が用いられた韓屋には釘が一切使われておらず、伝統的な建築技法に従って木組みで建てられており、2014年に今年の木造建築大賞に輝きました。ペンションは「一然斎」と「皎月堂」という独立した建物がそれぞれ客室として使われており、8名様~15名様が宿泊できます。各建物にはトイレとキッチン、エアコン、冷蔵庫などが備え付けられています。事前に予約すればバーベキューも可能で、10名様基準20,000ウォンで炭とグリルが使用できます。朝食は有料で、紙の美術館にあるカフェで提供されます。ペンションの宿泊者は紙の美術館に無料で入場でき、美術体験プログラムや伝統遊びを体験できます。