済州道(西帰浦市) , 서귀포

美しい自然を誇る済州島の西帰浦市にある西帰浦市立済州ワールドカップ競技場(チュジュ・ワールドカップキョンギジャン)は、2002年韓日ワールドカップサッカー大会の際にオープンした競技場。済州特有の地形である「オルム」(山の中腹にできた小さい火山を指し、小さな丘のように盛り上がった形態)と火口をイメージして作った競技場の形に、済州伝統の伝統漁船の網の形をイメージした屋根がかかり、とても美しい外観のスタジアムとなっています。また、済州の地形と気候を考慮し、グラウンドを地下14メートルの位置に作り、風を避けられるようになっています。


ソウル(鍾路区)

「死を覚悟し戦えば生き残り、生き残ろうとすれば戦いを避け死に至らしめる」[乱中日記]1597年9月15日 「忠武公物語(チュンムゴンイヤギ)」は、李舜臣将軍の生涯と業績を展示した記念館です。先端デジタル技術と展示技法を混合活用し、李舜臣将軍の愛国心と民を愛する精神、壬辰倭乱における劇的な海戦勝利などの話を通じて将軍の業績と人間的な一面を知ることができるように工夫されています。


慶尚南道(昌原市 )

鎮海軍港祭(チネグナンジェ)は韓国最大の桜祭りで、桜の花が満開になる4月初めに開かれます。この期間中は、200万人以上の国内外の観光客が訪れ、鎮海中原ロータリー一帯は大変な賑わいを見せるようになります。桜並木のトンネルを歩くと、風に舞う桜の花びらのシャワーを浴びることができます。その他にも軍楽隊によるパレードなど様々なイベントが用意されています。 関連ページ:春風に誘われて旅立つ桜旅行 鎮海軍港祭  


忠清南道(牙山市 )

温陽(オニャン)グランドホテルは、国内最古の温陽温泉地域にあり, 百済, 統一新羅時代を経て、その歴史はおよそ1300年あまりにもなると記録されたおり、特に朝鮮時代には世宗大王、世祖、燎宗、肅宗、明宗、英祖先、正祖など、多くの王様が温宮を作り、体を休めるために滞在したと言う多くの記録と遺跡が残っていて, 温泉に臨幸して科挙試験を行い人才を発掘したと言う記録が残る、歴史的な所です。王室温泉の歴史と共に、忠清最大規模の天安, 牙山産業基地の隣接地域に150の客室と、最高級の各種施設を持つ中部圏唯一のビジネスホテルとして, ビジネスとレジャーが兼備された一流ホテルです。


ソウル(鍾路区) , 仁寺洞・鍾路

仁寺洞には味も雰囲気も良い茶屋がたくさんあります。韓国の代表的な文化通りであるだけ伝統の茶屋も多くあります。その中で食事をして余裕を持ってお茶を飲める場所として「美しい茶博物館」をオススメします。ここは韓国だけでなく、日本、中国、台湾など世界約100のお茶を飲めるところです。お茶屋に博物館とギャラリーがあり、お茶を飲みながら博物館で文化を振り返り、ギャラリーで現代作家の作品を鑑賞できます。


江原道(春川市) , 春川

九谷瀑布は1981年2月13日、春川(チョンチョン)市の観光地に指定され、面積は2423平方㎢です。九谷瀑布の券売所から歩いて約20分のところに滝がありますが、周辺の自然景観とよく調和をなしており、奇岩怪石でできた岩の壁の迫力には思わず感嘆してしまうほどです。冬にはアイスクライミングの愛好家たちが多く訪れます。滝の下の右側の登山路に沿って20分程のところにある「カルダクコゲ」という峠を越えると「ムンベマウル(村)」が現われます。ここでは山菜ビビンパや民俗酒を販売しています。江村(カンチョン)から自転車専用道路を利用し、九谷瀑布駐車場までハイキングをした後に九谷瀑布を見物するか、江村市内から市内バスを利用し、九谷瀑布入口まで来る方法があります。


ソウル(鍾路区) , 仁寺洞・鍾路

この店はソウル特別市のチャンギョングンに位置した和食専門店です。和風丼料理の専門店です。代表的なメニューはカツ丼です。  


済州道(済州市 ) , 구 제주

済州オリエンタルホテルは済州市塔洞海岸に面した南国の情緒溢れる特1級ホテルです。313室の客室と大型の宴会場、レストランやサウナなどの各種施設もあります。済州市内の中心にも近く利便性がよいので観光で宿泊される方には非常に便利な場所だと言えるでしょう。


京畿道(華城市) , 水原

  隆陵 隆陵は朝鮮第22代正祖の父である莊祖(1735-1762)とその妃、獻敬王后(1735-1815)洪氏の合葬陵です。莊祖は朝鮮21代英祖の2番目の息子であり、1736年(英祖12年)に皇太子となりました。さまざまな方面において皇太子としての優れた面貌を備えていましたが、1762年に父・英祖の命令で米びつの中に監禁され亡くなりました。莊祖の陵は元は京畿道楊州郡拜峰山にありましたが、彼の息子・正祖が即位すると華城の華山に移し顯隆園としました。後に莊祖として追尊され現在の位置に墓を移した後、陵号(墓の名前)を隆陵としました。獻敬王后は1744年に皇太子の妻となりました。夫が非業の死を遂げた後、還暦を迎えた1795年、甥・洪守栄の願いで莊祖の惨事を中心にした自伝的回顧録「閑中錄」を残しました。資料的価値の高い「閑中錄」は「仁顯王后伝」とともに宮中文学の双へきを成しています。京畿道華城市安寧洞にある隆陵は、皇太子の墓である本来の形式に木蓮と蓮の模様を刻んだ屛風石を設置し、上界空間と下界空間に分けて空間を王陵のように作りました。上界には陵、魂遊石(魂が出てきて遊ぶようにした石という意味で、王陵の封墳の前に置かれた四角形の石)、 望柱石(墓の前の両側に造られた一対の石柱)が配置されており、下界には文人石(長明燈の左右にある文官の形をした石)、石馬(石で造った馬)が配置されています。健陵健陵は正祖(在位:1776-1800, 1752-1800)と彼の妃の孝懿王后(1753-1821)金氏の墓です。 正祖の遺言に従い父の陵である隆陵から近い場所に安葬されました。莊祖と獻敬王后(惠慶宮 洪氏)の2番目の息子であり、1959年(英祖35年)、8歳で皇太子の長男となりました。党争の渦の中王位についた正祖は、在位24年の間蕩平策(党争の弊害をなくすために各党派で人材を登用した政策)を実施して国を治め、王室の図書館である奎章閣を設置し、学問の研究に大きな業績を残しました。彼の妃である孝懿王后は金時黙の娘で1762年、10歳で皇太子の長男の妻になりました。1776年に正祖が即位し王妃となりました。一生をつつましく暮らし、1821年(純祖21年)に昌慶宮慈慶殿にて69歳でなくなりました。健陵は合葬陵で隆陵の例に従いましたが、屛風石(封墳を保護するために 封墳の下の部分を囲んだ石)を巡らせた点を除けばほとんど隆陵の構成と似ています。 健陵や隆陵とともに同一史跡に指定されました  


光州広域市(光山区)

光州駅から14㎞離れた所にある鉄道交通の要地で、圏内には河南洞や素村公団があります。龍山駅、木浦駅から出発するKTXを含む湖南線、慶全線全便が停車します。また、光州都市鉄道1号線と市外バスのバス停があり、乗換えなども便利です。