慶尚北道(慶州市 )

王陵(王の墓)から東南を眺めると、松林が生い茂りその中に小さな石碑を保存するための建物があります。その横にある井戸が蘿井(ナヂョン)です。『三国史記』や『三国遺事』にはこの井戸端で新羅の初代王である、朴赫居世が生まれたという伝説があります。紀元前69年のある日、高墟村長の蘇伐公が井戸端で白い馬が横たわっているのをみつけます。不思議に思いその場所へと行くと、馬はおらず代わりに大きな卵がありました。その卵から男の子が生まれ、13歳になった年(紀元前57年)に6部の村長らが彼を王様に選びました。そして、その国の名前を徐羅伐(ソラボル)と名づけます。ここには今でも井戸が残っており、朝鮮時代の純祖王3年(1803年)、初代王について記録した碑(高さ2.25m、幅45㎝、厚さ21㎝)もあります。


京畿道(高陽市)

ホテル・リッチは一山のキンテクス展示館から近いところに位置しビジネス用の宿舎及び日常の中で疲れた体と心を癒すための最上の施設やサービスで旅行を迎えている。 地下鉄3号線の大化駅の近くに位置していて大衆交通へのアクセスも容易で、周辺の観光地としては、幸州山城、西五陵、一山湖公園、一山キンテクス展示館などがある。 ホテル・リッチでもう一つの美しい旅の思い出を作ってみよう。


忠清北道(清州市 )

* 文化遺跡とともに憩いのひとときが過ごせる空間、清州中央公園 * 古の時代から清州(チョンジュ)の地形は清州の街を南北に流れる無心川(ムシムチョン)に浮かぶ船のような形をしていることから、舟城(チュソン)と呼ばれていました。清州のど真ん中といえる南門路2街にある龍頭寺址鉄幢竿(ヨンドゥサジチョルダンガン)はその舟を安定させるため立てた帆柱とも言われています。 清州中央公園は全州市の真ん中にあり、園内には鴨脚樹や忠清道兵馬節度使営門、望仙楼という歴史的な遺跡が数多くあります。 兵馬節度使営門は木造二階建ての楼閣で、正面3間、側面2間の翼工系八角屋根の建物となっており、有形文化財第15号に指定されています。 その前には樹齢およそ1000年と推定されるイチョウの木・鴨脚樹や趙憲(チョ・ホン)先生と霊圭(ヨンギュ)大師を称える碑、朝鮮時代末期の義兵長・韓鳳洙(ハン・ボンス)の頌功碑、同じく朝鮮時代末期の義兵長・朴春茂(パク・チュンム)の碑などがあります。 清州中央公園は全州市の中心にある市民の憩いの場所で、市民を対象としたさまざまなコンサートやイベントが開催されています。 公園内には樹齢およそ1000年のイチョウの木・鴨脚樹(忠清北道記念物第5号)や木造2階建ての楼閣・忠清道兵馬節度使営門(地方有形文化財第15号)、趙憲戦場記蹟碑(地方有形文化財第136号)、清州斥和碑(地方記念物第23号)など記念物や有形文化財が多数あります。 * 清州中央公園にあるイチョウの木の伝説 * 清州中央公園にある銀杏の木は葉っぱの形が鴨の足のような形をしていることから、鴨脚樹という名前が付けられています。 またこのイチョウの木にはこんな言い伝えもあります。 高麗時代末、恭譲王(コンヤンワン・在位1389~1392年)の時代、尹彛(ユン・イ)と李初(イ・チョ)がその後朝鮮王朝を打ち立てることになる李成桂(イ・ソンゲ)一派を排除するため、中国の明に出向き、李成桂が恭譲王とともに明を討とうとしていると嘘の話を伝えました。この一件が原因で、李穡(イ・セク)、権近(クォン・グン)などが清州獄に捕らえられ尋問を受けるといなや、豪雨が降り、清州の城内が洪水に見舞われてしまいます。獄のそばには大きな木があり、罪をかけられたその人々が洪水を避けるためこの木に上り、命からがら生き残ったという言い伝えがあり、その木がこの鴨脚樹だったと言われています。 [文化財情報] 忠清道兵馬節度使営門(地方有形文化財第15号)、鴨脚樹(忠清北道記念物第5号)、望仙楼(地方有形文化財第110号)、趙憲戦場記蹟碑(地方有形文化財第136号)、清州斥和碑(地方記念物第23号)


忠清南道(舒川郡 )

韓山カラムシ館はカラムシの伝統性とその製織技術を広く知らせ、伝承保存しようという目的で1993年8月に開館されました。8万5千㎡の規模の敷地内に伝統工房、教育館、韓山素穀酒製造場、土俗館などの施設があります。 教育館内の全施設にはカラムシの歴史を伝える考証書籍とはた織り機、カラムシ製品などが展示されています。伝統工房ではカラムシ草の栽培からカラムシの裂き方、編み方、結び方などの工程を再演します。また、250点余りの郷土文化資料が展示されており昔の人の生活をのぞくことができます。展示室では韓山カラムシを素材にしたファッションデザインを通して現代人の好みに合わせた服を毎年制作、公開していて、様々なカラムシ製品の販売も行っています。韓山カラムシは夏用の高級生地として清潔で清楚さが自慢の品位ある天然生地です。


京畿道(驪州市) , 驪州

驪州(ヨジュ)は高麗時代(918~1392)初期から陶磁器が製造されていた場所であり、陶磁器の生産に必要な高嶺土や白土などの質のよい土が多いため、早くから陶磁器工業が発達しました。特に、驪州陶磁器祭り(ヨジュ・トジャギチュッチェ)は、韓国で初めて陶磁器をテーマにしたイベントで、優秀な職人たちが作った陶磁器を直接目で見られ、普段よりも安い値段で購入することもできます。


済州道(済州市 ) , 신제주

プシケワールドは約3千種類の蝶を10万匹以上展示している博物館です。プシケはギリシア語で蝶を意味し、ローマ神話に出てくるキューピット(エロス)の恋人としても有名です。 プシケワールド観覧館は蝶と昆虫の標本で、人生を表現したパロディワールドやインコ、うさぎ、ハムスター、チョウセンハリネズミ、長寿コガネムシ、クワガタ、子どもたちの大好きなペットや昆虫、蝶、蚕の卵などを観察し、体験できるライブワールドがあります。スタディーワールド観覧館では蝶と昆虫の意味をはじめ、蝶の一生にいたるまで、たくさんの見所と情報であふれています。外部観覧館のクリスタルハウスでは、飛び回る蝶や昆虫を見ることができます。その他、休憩コーナーもあります。 パロディワールド、ライブワールド、スタディワールド観覧館では、外国人のための英語、中国語の解説サービスもあります。プシケワールドは済州空港から中文観光団地方向に15.3㎞離れた、済州競馬公園の向かい側に位置しています。アクセス方法は済州空港からタクシーに乗り、プシケワールドまで直接移動します。料金は約9,500ウォン~10,000ウォンです。


江原道(束草市)

江原道束草市に位置した草原リチョテルは、雪岳山と東海との間地点として大衆交通を利用しても海と山が巡回できる地理的に有利な所に位置している。 4階規模の建物に入ると、ソファーとテーブルが置かれている休憩空間があるロビーがすぐ見える。 客室は、宿泊客用の一般室と炊事ができるコンドミニアムタイプの客室が大きさ別に用意されており、客室の内部はやや広くて清潔である。 各客室にはきれいに整頓された寝具や基本器材がよく整備されており、落ち着いて安らかな寝所を提供する。 一部の客室には障害者専用の便宜施設も備わっている。付帯施設としては、野外バーベキュー場、40台余りの車が駐車できる広い駐車場がある。 雪岳山と束草海水浴場のほかにも、洛山寺、大浦港、東明港、尺山温泉や渓谷とも接している。


ソウル(鍾路区) , 仁寺洞・鍾路

景福宮の近くに位置しウィキカフェは、スーパージュニアソンミンの母が運営するカフェだ。近所の家に遊びに来たように軽い足取りで木造階段を登ると2階のテラスから景福宮を眺望でき、夕暮れ時間頃には、光化門の城壁の階段に光が落ち、さらに温かい雰囲気を吹きだす。景福宮と光化門広場、周辺ギャラリーを見学し休憩良い場所である。コーヒーをはじめとする飲料はもちろん、ワッフル、ケーキなど様々なデザートメニューも備えている。景福宮を見下ろすテラスでお茶を楽しむロマンを享受してみてはどうだろう。 スーパージュニアソンミンの各種画報と写真が展示されており、カフェ一角には、ソンミンに向け、ファンのメッセージがぎっしりとついている。ソンミンをキャラクター化した各種MD商品も販売している。  


釜山広域市(海雲台区) , 海雲台

氷がカチカチに凍った北極海でも自由に泳ぎまわる北極グマのように、冬場の氷点下の中、冷たい海に飛び込み水泳を楽しむ大会です。参加者には健康美を存分に自慢し、刺激的な思い出づくりの場を提供し、観光客には冬の海の一風変わった見所を提供する冬の海最高のお祭りです。 1988年、ソウルオリンピックを記念してウェスティン朝鮮ホテルが始めて開催した北極グマ水泳大会は、年々人気を得、開催初期は100人程度だった参加者が2000年以降は1,000人以上に増え、大規模な行事に成長しました。 今年27回目を迎えるこの大会は冬の東アジアを代表する祭りを目指してプログラムも多様に準備しています。


慶尚北道(青松郡 )

平山申氏判事公派宗宅(ピョンサンシンシパンサゴンパジョンテク)は、1990年に慶尚北道民俗資料第89号に指定された古宅です。 この家は、朝鮮時代の粛宗(在位期間1674~1720)の時代に申漢泰が建てた建物で、申崇謙将軍の15代子孫である申得清を始祖としています。 家の構造は、朝鮮時代の上流階級の典型的な住宅様式をしています。大門の横にヘンナンチェ(門屋)とコッカン(庫間、穀物や物を入れておくところ)があり、広い庭にはㅁ型のアンチェ(母屋)と別室、亭子(あずまや)などが建っています。 また、平山申氏判事公派宗宅の近くには棲碧古宅(慶尚北道民俗資料第101号)と泗南古宅があります。どちらも朝鮮後期に建てられた平山申氏判事公派一族が暮らしていた家屋であることから、このあたりに集姓村が形成されていたことがうかがえます。