京畿道(漣川郡)

漢灘江駅は1975年6月28日簡易駅として営業を開始しました。2011年7月韓国中部集中豪雨による線路流失で営業が一時中断されましたが、2012年3月21日哨城鉄橋完工で通勤列車運行再開と同時に片道基準1日6本が減車されました。2012年7月には通勤列車運行本数が以前の本数まで増やされて現在まで運営されています。漢灘江駅は京元線、哨城里駅と全谷駅の間に位置した無人簡易駅ですぐに近隣に漢灘江遊園地と旧石器遺跡があり、漢灘江鉄橋入口には韓国戦争(朝鮮戦争)国連軍参戦碑と38度線境界が位置しています。


全羅北道(益山市 )

史跡第347号に指定されている笠店里古墳(イプジョムニゴブン)は、全羅北道益山市熊浦面笠店里チルモク峠の丘陵に位置する百済時代の古墳群です。全部で8基の墓があり、1号墳は石室墳で、これ以外は破損のひどい状態で発見されました。出土品には土器類や金銅冠、金の耳飾り、ガラス玉などの装身具類、馬具、鉄器などがあり、百済時代の遺跡の中でも重要な遺物が発見されました。出土品により、5世紀ごろに作られた墓であると推定されています。金銅製の冠は日本で発見されたものと似ており、当時百済と日本の間で文化交流があったものとみられています。 


ソウル(鍾路区) , 仁寺洞・鍾路

この渓谷はソウルでは目図化らしい文化史跡(白石洞天/史跡第462号)と自然環境が調和した優秀な自然地域として山椒魚やカエルなど多様な生物が生息しています。特に1級数指標種である山椒魚はソウル特別市自然環境保全条例によりソウル市保護野生動物としてこの渓谷に集団で生息しており、その保存価値が高い地域です。知る人だけ知っているというソウルの清浄渓谷で山椒魚が住んでいるということで話題になりました。白沙(ペクサ)李恒福(イ・ハンボク)の別荘があることで付けられた名前だとされています。深い林に沿って続く小道を進む足並みをさえぎるかのような趣のあるこの場所は、本当にここがソウル市内なのか疑ってしまうくらい自然の美しい場所です。カフェ「サンモトンイ」と軍の部隊を過ぎると渓谷の入口が見えます。


慶尚南道(山清郡 )

白巖里から渓谷に沿って5kmほど登ると、鬱蒼とした樹木の間に30坪ほどの広々とした「チョムジョン岩(バウィ)」と高さ5mほどの滝が壮観をなす白雲洞渓谷(ペグンドン・ケゴク)があります。渓谷の6km近く、岩肌の上だけに水が流れ、大小20ほどに達する滝と沼があります。渓谷の広い岩肌は日差しの水の流れに洗われて、白玉のように眩しく輝いています。その中でも最も有名なのが白雲瀑布と五潭瀑布。また「嶺南第一泉石」という文字が彫られている登天台は水の流れが荒いことで有名である他、最もきれいな自然環境を維持している清浄地域としても広く知られています。春には谷間につつじの花が咲き乱れ、夏には涼しい渓谷に多くの避暑客が訪れる名所となっています。


慶尚南道(密陽市 )

1905年1月1日に慶釜線開通とともに営業を開始、1982年12月28日に瓦葺の韓屋の構造をしている駅舎が築造されました。駅舎の屋根は伝統家屋の形式である瓦葺を利用し、地上2階地下1階建ての建物で忠と孝を重要視した密陽市のイメージにぴったりです。また、駅舎まえの広場は密陽市民だけではなく観光客達が楽に休むことが出来る美しく快適な空間です。密陽駅は釜山を除外した慶尚南道唯一のKTXの停車駅で馬山、昌原、などの旅客の長距離旅行の起点にもなっています。


忠清南道(礼山郡 )

礼山郡光時面と大興面、洪城郡金馬面が出合う地点に海抜483.9mの鳳首山があります。この山頂にある任存山城は、高い位置に井戸を掘って水を集めておき、攻撃のときに排水口を開けて水を噴き出させ、敵を一時的に苦境に陥れる攻撃を加える目的で造られた城です。 任存山城は約4kmのテメ式(7、8合目の稜線に沿って水平に峰を一周する方式)の石垣で築造されており、城壁の高さは2.5m、幅は3.5mで、南側の城壁はひどく曲がりくねっており、城内には7、8mの内堀があります。外壁は石を積んで造られており、中は土で埋められています。周囲の長さは約5,194尺、高さ約2.5m、幅約3.5mで、馬で走っても十分な広さがあります。660年に百済が羅唐連合軍に負けたとき、義慈王のいとこの弟である福信、道琛(僧侶)と黒歯常之が3年間、後百済復興運動の拠点として活用し、百済の山城の中でもっとも規模が大きく、山城研究の基礎となっています。 城郭に沿って下りると大蓮寺があり、頂上からは南から西へと伸びる烏棲山、白月山、伽倻山を一目で見ることができます。この城の特徴は、四隅を堅牢な造りにするため、他の場所より2mほど厚く内托(外側は石造りにし、中は割石や土で埋める方法)にし、城の高さも高めになっています。光時面馬沙里方向からは城の下まで林道を利用し、車で駐車場まで行くことができます。  


慶尚北道(栄州市 )


江原道(寧越郡)

新羅真徳王647年頃、慈蔵律師によって創建され、「獅子山寺」と呼ばれていましたが、1939年重修仏事の際、獅子山寂滅宝宮に改称し、仏様の真身舍利を奉安した5大宝宮のうちのひとつです。舍利塔の横には、慈蔵律師が修道した土窟があります。 法興寺は、新羅時代、慈蔵律師が釈迦の真身舍利を奉安して創建した法興寺のお寺です。 当時、澄曉大師は、唐の国で文殊菩薩の真身舍利100課を得て、梁山・通度寺、五台山・上院寺、雪岳山・ 鳳頂庵・精選正岩寺などに分けて奉安し、ここに寂滅宝宮型法堂を建てました。法興寺は、これら5大寂滅宝宮の内の一つで、澄曉大師は、法興寺寂滅宝宮後方の山に仏陀の真身舍利を奉安したと言います。そのため寂滅宝宮の中には、仏陀の三尊仏がなく、後方にぽっかりと開いた窓だけが一つあります。これは山全体が仏陀の体だと伝える法興寺寂滅宝宮と言う意味を指していると言います。 法興寺は一時約2千人の修道僧が雲集した大きな伽藍でしたが、数回にわたる火事によって寺が全焼してしまい、現在は寂滅宝宮と心友場、ヨサチェ、寧越興寧寺澄曉大師塔碑、慈蔵律師が修道した土窟が残っています。 法興寺から寂滅宝宮につながる松森の道は、韓国でも有数の景勝地の内の一つです。 寺に入る一本道の松林が壮観で、寺の前に小さな峰が幾重にもつながった九峰台もやはり絶景です。


全羅北道(高敞郡 )

文殊寺は水がきれいで鬱蒼とした林があり、人的な汚染の影響を受けていない場所にあります。地方有形文化財第51号である大雄殿と52号である文殊殿があり、冥府殿や冬山殿などが残っています。大雄殿は小規模の建物ですが屋根が珍しい形をしています。