江原道(華川郡)

「七星(チルソン)展望台」は1991年に完成した北韓を臨む展望台です。 オープン以来およそ21年経過したことから建物や建物内部の観光施設の一部が老朽化し、2013年4月19日、新たに現代風にリモデリングを実施、安保観光の目玉施設として再オープンしました。 見学時には身分証を提示し、七星展望台案内所にて申込書を作成の上、引率ガイドが同行する形で見学します。 七星展望台では南韓から唯一北側へ流れ平和のダムへと注ぎ込む金城川(クムソンチョン)や、北韓の美しい山々、そして野原の風景を眺めることができます。 またDMZ(非武装地帯)に生息する野生動物の姿も見ることができます。


江原道(鉄原郡)

鉄原(チョロン)駅は1912年10月21日に開業したソウルと元山(ウォンサン)を結ぶ鉄道・京元線の主要駅で、金剛山(クムガンサン)電気鉄道の始発駅でもあった駅です。 駅が旧・鉄原市街地にあったため、日帝強占期(1910~1945年)には同じ江原道(カンウォンド)にある春川(チュンチョン)に匹敵するほど人の往来が多く活気に満ちていたといいます。 またこの鉄原駅から韓半島の景勝地・金剛山に向かう金剛山電気鉄道が走っていたこともあり、通常の鉄道施設のほかにも金剛山電気鉄道の操車場、事務室、電気施設、旅館などが軒を連ね、当時はソウル駅と比較されるほどの大きな駅で、京元線沿線でも有数の駅に数えられていました。 残っている記録によれば、1928年には駅舎が新築され、1934年6月9日には駅構内の跨線橋やプラットホームの屋根も新設されました。 京元線は韓日強制併合(1910年)以降、日帝による住民の強制動員やロシアで起きた十月革命により追放されたロシア人らを雇用し敷設され、1914年9月16日には元山で京元線全線開通式が行われました。 京元線の総延長223.7kmのうち、鉄原駅からソウルの龍山(ヨンサン)駅までは98.1kmあり列車で約2時間、鉄原から元山までは125.6km、約3時間かかりました。鉄原駅から内金剛(ネクムガン)まで運転していた金剛山電気鉄道は、全線で116.6kmあり、終点・内金剛駅まで4時間半かかりました。 江原道(カンウォンド)鉄原郡鉄原邑外村里(ウェチョルリ)の鉄原平野の真ん中に位置する鉄原駅の敷地はおよそ5万坪にも及び、1930年ごろには駅長を含めておよそ80人の駅員が勤務していたといいます。 1950年に勃発した6.25戦争(韓国戦争・1950~1953年・休戦)中には、プラットホームが被害を受けたほか、給水塔が破壊され、レールも大部分がその痕跡だけを残し無くなってしまい、廃駅となってしまいました。 廃駅後は放置状態となっていましたが、駅構内の土地は、駅の復旧に備え、保全管理地域に指定されました。 2006年5月3日には駅構内に統一念願の枕木というモニュメントが建てられました。


慶尚南道(宜寧郡 )

湖巌(ホアム)生家は、三星(サムスン)グループ創業者で韓国の経済発展を牽引した代表的な起業家である湖巌・李秉喆(イ・ビョンチョル)先生が生まれた家です。 1851年、湖巌先生の祖父が1,907平方メートルの敷地に伝統韓屋様式で自ら建てたもので、湖巌先生は幼年期を経て結婚し分家するまでの間、この家で暮らしました。一文字型の平屋の形態で建てられた生家は、南西向きの平らな土地の上に建てられており、これまで何度も増改築が行われ、素朴で孤高な趣が漂う今日の姿に生まれ変わりました。 現在の生家には、母屋、舎廊(サラン)チェ、大門(テムン)チェ、納屋の建物があり、こじんまりとした土塀や岩壁に囲まれ、敷地の外と隔たれ、周囲には鬱蒼とした竹林が生い茂り、素晴らしい風景となっています。 また風水地理的にもこの生家のある土地は素晴らしい土地と言われています。穀物の俵を高く積み上げたような露積峰の形をしている周辺の山の気運が、山の麓に位置する生家のある土地へと続きそこから湧き出るような形となっていることから、生家のある土地はその気運を受け隆盛をなす素晴らしい土地となっています。 また、遠く流れる南江(ナムガン)の川の流れが河口へと一直線に流れず、この生家の周りを経てゆっくり流れる逆水といわれる地形となっていることも、この地が風水地理的に素晴らしい土地となっている証拠で、この地は風水地理的に一番よいとされる土地・明堂(ミョンダン)の中の明堂と言われています。 *湖巌・李秉喆先生について* 湖巌・李秉喆先生は1910年、慶尚南道(キョンサンナムド)宜寧(ウィリョン)で生まれました。 1938年大邱(テグ)で三星商会を設立、以降、三星電子をはじめとした多くの企業を興し、韓国経済発展に大きな貢献をしました。1961年には韓国経済人協会(全経連= 全国経済人連合会=の前身)の発足に参加し、初代会長に就任しました。 1965年には企業の社会的責任や使命に対する確固とした信念を礎に三星文化財団を設立、韓国の精神的財産を豊かにする様々な事業を展開しました。 また、1980年代には独自の洞察力と先見性により、半導体産業に進出、韓国の最先端産業発展の基礎を作り上げました。 湖巌先生は事業報国、人材第一、合理追求の経営哲学の下、当時発展から取り残されていた韓国経済を今日まで牽引、韓国の経済発展をリードしてきました。 また先生は成均館(ソンギュングァン)大学校の経営を通じた人材育成をはじめ、文化・芸術・マスコミなど社会各分野の発展に大きな業績と教訓を残しました。


全羅南道(宝城郡 )

住岩湖(チュアムホ)の美しい風景を背景に剛健な生涯を貫いた独立闘志・松斎(ソジェ)徐載弼(ソ・ジェピル)先生の魂が宿るここ、松斎徐載弼先生生家、そして徐載弼記念公園。 1884年に起きた甲申政変(カプシンジョンビョン)の中心人物のうちの一人であった当時20歳の徐載弼先生は政変失敗後、米国に亡命し、韓国初の西洋医学の医師となりました。 しかし自らの出世にこだわらず、祖国独立のためにその身を捧げ、独立新聞の創刊、独立門の建立など、その生涯を独立運動に没頭した人物です。 徐載弼先生が生まれた全羅南道(チョルラナムド)宝城郡(ポソングン)文徳面(ムンドクミョン)の生家前には徐載弼先生を追慕するために造成された記念公園があり、園内には徐載弼先生の精神が宿る独立門を再現、そのほか遺品およそ800点なども展示する施設があります。。 生家のある場所は宝城郡の北部に当たり、悠久の名刹・大原寺(テウォンサ)や郷土作家展示館・百民(ペンミン)美術館、そして住岩湖畔、昇州(スンジュ)支石墓公園とともに、教育文化観光コースとして観光客に人気の観光スポットとなっています。


忠清南道(天安市 )

趙炳玉博士生家地は、独立運動家で政治家としても活躍した維石(ユソク)趙炳玉(チョ・ビョンオク)博士が生まれたところです。 1894年3月21日、忠清南道(チュンチョンナムド)天安市(チョナンシ)並川面(ピョンチョンミョン)龍頭里(ヨンドゥリ)で生まれ、ソウルの培花学堂(ペファハクタン)で学び、その後、平壌(ピョンヤン)崇実(スンシル)専門学校を卒業後、渡米し米国コロンビア大学に留学しました。 コロンビア大卒業とともに1925年帰国し、1927年には抗日団体・新幹会に参加、幅広い抗日民族戦線を形成する運動に立ち上がりました。 1929年には光州(クァンジュ)学生運動を裏で操っていたとして逮捕され3年間獄中生活を余儀なくされました。 大韓民国政府樹立後は李承晩政権下で内務部長官を歴任するなどしたものの、李承晩大統領と意見の対立があり、辞職に至り、以降野党の政治家として活躍することになります。 その後1960年には李承晩大領領率いる自由党に対抗する民主党の大統領候補として選出されたものの直後に病で倒れ渡米、病気療養中にアメリカで逝去しました。 没後の1962年3月1日には大韓民国建国勲章単章(独立章)が追贈されました。 現在の趙炳玉博士生家地の建物は1995年4月20日に復元されたものです。 なお、趙炳玉博士の父である趙仁元(チョ・イノォン)氏は1919年の3・1独立運動直後、地元・天安で起きたアウネ万歳運動で、柳寛順(ユ・グァンスン)烈士とともに主導的な役割を果たした人物として知られています。


京畿道(坡州市 ) , 坡州(ヘイリ村)

臨津閣(イムジンガク)広場前の望拝壇(マンベダン)後方にある橋・自由の橋(チャユエタリ)。 1953年、韓国戦争(1950~1953年・休戦)で捕虜となった1万2,773人がこの橋を渡り南側へ帰還したことから、「自由の橋」と言われています。 元々ソウルと新義州(シニジュ)を結ぶ京義線(キョンイソン)の鉄橋で、上下それぞれ1本ずつの橋がありましたが、韓国戦争中の爆撃により破壊され、橋脚のみ残っている状態でした。 北に捕らえられた戦争捕虜を帰還させるため、臨津江(イムジンガン)下流(西)側の下り線にあった橋の橋脚に橋桁を架け、橋板を置いて復旧させ、この仮設の橋を完成させました。 当時、捕虜らは車で京義線のこの橋の北端までやってきて、歩いてこの橋を渡って南側へ戻ってきたといいます。 自由の橋は全長83m、幅4.5m、高さおよそ8mの規模を誇る橋です。 自由の橋は当時、木材を組んで造りましたが、特に荷重がかかる部分は鉄材も使いながら造りました。 仮設の橋であったため、建築的観点からはあまり素晴らしい点はありませんが、「自由への帰還」という象徴的な意味において、韓国戦争を代表する戦争遺産と言えるべき橋です。 以前は外国人向け板門店(パンムンジョム)ツアーのバスがこの橋を通過して板門店に向かうなどしていましたが、現在では再び鉄道橋として復活し、線路が敷設され、川向こうの都羅山(トラサン)駅まで行くことができます。


ソウル(鍾路区)

安国洞(アングクドン)交差点から鐘閣(チョンガク)方面に南北に走る郵征局路(ウジョングンノ)を南へと歩いていくと、すぐ右手に民家と軒を連ねている小さな建物が見えてきます。それが郵征総局(ウジョンチョングク)の建物です。 この郵征総局は朝鮮時代末期、郵政業務を行っていた官庁です。日本とアメリカを視察した洪英植(ホン・ヨンシク)の建議により、従来の駅伝法を改正し近代式の郵便制度を創設、1884(高宗21)年3月27日(陰暦)、旧・典医監(チョニガム=朝鮮時代、宮中で使われる医薬の供給や下賜された医薬にかかわる業務を担った機関)の建物を改修する形で郵征総局を設置しました。 この郵征総局は韓国国内の郵便事務よりも、仁川(インチョン)、釜山(プサン)、元山(ウォンサン)などの港を経て発送・到着する国際書信の交流事務に力点を置いていました。郵征総局は韓国初の近代郵便制度が始まったところですが、従来の政治体制を変革しようと試みた甲申政変(カプシンチョンビョン)が起こった場所としても有名です。 清と閔氏一族の勢力が1882年壬牛軍乱(イモグルラン)を契機に徐々にその勢力を拡大すると、これに危機感を抱いた金玉均(キム・オッキュン)、朴泳孝(パク・ヨンホ)、徐載弼(ソ・ジェピル)などの改革派が政権奪取を目指し、郵征総局営業開始を祝う宴の当日の1884年12月4日(旧暦10月17日)に甲申政変を起こしました。 この当日、郵征総局の隣の民家に火を放ち、これを合図に保守派に対する攻撃を開始しました。 改革派が当時掲げた革新政綱には、両班(ヤンバン)中心の政治社会の支配秩序を打破し、民衆の平等と自由を実現する富国強兵の自主独立国家の建設を目指すことが書かれていました。 しかし、肝心の民衆の理解や関心を引き寄せることに失敗、加えて改革派を支援していた日本軍さえも清国軍に撃破され、政変は三日天下に終わってしまいました。 郵征総局の建物は何棟かあったものと思われますが、現在では現存の建物1棟のみが残っている状態です。郵征総局は韓国郵便事業の発祥地であり、また世界的に見ても古い部類に入る郵便業務を主管する官庁の一つに数えられています。  1884年12月に甲申政変により開業間もなく閉鎖された郵征総局でしたが、128年ぶりに郵便業務を再開、2012年再びオープンしました。再スタートを切った郵征総局ですが、現在、建物内部は郵政史料展示スペースと郵便業務スペースの二つに分かれています。現在の郵征総局の建物は史跡第213号に指定された建物のため、簡単な郵便業務のみを取り扱っています。 * 面積 - 2,588平方メートル


ソウル(蘆原区)

花郎台(ファランデ)鉄道公園は、ソウル特別市蘆原区(ノウォング)孔陵洞(コンヌンドン)の旧・花郎台駅付近の400m区間に造られた光の公園です。 光のトンネル、音楽の庭園、光の庭園、空色庭園、生命の木、幻想の汽車駅、天の川庭園、森の中のおとぎの国、ホタル庭園などすべてで10コースにのぼる様々な電球で彩られたオブジェのコースがあります。


ソウル(鍾路区)

ソウル特別市鍾路区(チョンノグ)の大学路(テハンノ)にある韓国放送通信大学本館の建物。この建物は大韓帝国時代、工業伝習所本館として建てられた建物です。 この建物は大韓帝国の財務を総括する官庁・度支部(タクチブ)の建築所が設計、日本人の吉田謙造が施工を担当し、1907年着工、翌1908年に竣工しました。 工業伝習所は大韓帝国(1897~1910年)時代、商工業振興政策の一環としてて設立され、染織、製織、製紙、金銀細工、木工などの近代技術を教育する機関でした。 工業伝習所は1906年に発足し、元々貨幣の造幣を行っていた典圜局(チョナングク)機械試験所があった東崇洞(トンスンドン)の敷地を確保し、本館及び付属の建物を建築しました。 工業伝習所は1910年の日帝強占期(1910~1945年)がはじまると、統監府所管から朝鮮総督府所管となり、1912年中央試験場が設置されると中央試験場付設の機関となりました。つづいて1916年4月に創設された京城工業専門学校にその流れは引き継がれ、工業伝習所としての時代に幕が下ろされました。 旧・工業伝習所本館の建物は2階建てのルネッサンス様式の建物で、左右対称をなすH字型をした木造建物です。 大韓帝国時代に建てられた木造建築としては唯一その原型を良好な状態で留めている建物で、大韓帝国度支部が設計した数少ない現存する建物としても歴史的価値が高い建物となっています。 * 面積 - 999平方メートル


釜山広域市(東莱区)

東莱邑城址(トンネウプソンジ)は、東将台(トンジャンデ)がある忠烈祠(チュンニョルサ)の裏山から馬安山(マアンサン)を通り、西将台がある東莱郷校の裏山までの丘陵地や現在の東莱(トンネ)市街地中心の平坦な地域を一部含む典型的な平山城の形式で築城した城郭址です。東莱邑城は山城や平地の利点の双方を持つ、代表的な邑城でした。 高麗時代末期から朝鮮時代初期に築き上げられたものとみられる東莱邑城は、1592(宣祖25)年の壬辰倭乱(日本でいう「文禄・慶長の役」)の際、この地域を治める東莱府使・宋象賢(ソン・サンヒョン)公をはじめとする軍・官・民あらゆる人々が渾然一体となり倭軍に立ち向かい、壮烈な戦いが繰り広げられた壬辰倭乱初期最大の激戦地でした。 壬辰倭乱以降放置されていた東莱邑城でしたが、1731(英祖7)年、東莱府使の鄭彦燮(チョン・オンソプ)が国の要である東莱の重要性を鑑み、壬辰倭乱当時の邑城よりもさらに大規模な邑城を築きました。この時築城した邑城が現在までその痕跡を残している東莱邑城です。 東莱邑城には東門、西門、南門、北門、人生門、そして暗門があり、それぞれの門には門楼もあります。 東門には志喜楼(チヒル)、西門には心成楼(シムソンヌ)、南門には無憂楼(ムウル)、暗門には隠一楼(ウニルル)と言われる楼閣があります。 また重要な門楼であった南門には翼城(イクソン)を設け、前面に洗兵門(セビョンムン)、後方に朱鳥門(チュジョムン)を置く二重構造となっているほか、西門・暗門・北門には敵からの攻撃から守るため城門の前方に半円形の城郭を設けた甕城(ウンソン)の形式となっていました。ほかにも東莱邑城には、城内の高台に設けた建物で将帥が敵の動きを監視したり兵を指揮する為の指揮台・将台(チャンデ)、望楼(マンヌ)及び15の堡楼(ポル)などもありました。 日帝強占期(1910~1945年)になると、市街地計画という名目で西門から南門にいたる平地にあった城郭が撤去されたほか、南門から東門に至る城郭のあった場所にも民家が建てられ、結果、馬安山を中心とする山地にのみ城郭の姿がわずかに残るだけとなりました。 2000年代以降、東莱邑城内の敷地で行われた様々な工事の際の発掘調査により、壬辰倭乱当時の城郭の痕跡(朝鮮時代前期の邑城)や壬辰倭乱以降築かれた平地に築城された城郭の痕跡、そして朝鮮時代末期に修築された城郭を確認することができました。 これら発掘調査により、東莱邑城全体の正確な範囲、規模などが分かり、東莱邑城研究に多大な貢献をもたらしました。 釜山広域市では現存する城跡を中心に、毀損あるいは放置されたままとなっている城郭については発掘調査とともに補修・復元を今度とも推進する予定です。 <出典:釜山文化観光>