済州道(済州市 )

楸子島は、済州島の最北西にある島、上楸子島、下楸子島、秋浦島、橫看島の4つの有人島と38の無人島からなる群島で「済州島の小さな多島海」と呼ばれています。重なり合って見える島の峰は、まるで深い山中にいるかのような感じを与え、海と独特な形の島が合わさって美しい風景を演出します。また、ここはチャムグルビ(イシモチの干物)が名物となっているだけでなく、イシモチ、タチウオ、サワラ、タイ、サバ、スズキ、コウライエビ、サンマなど全ての魚種が豊富な地域でもあり、海釣り場としても知られています。 カラスバトやオオミズナギドリといった海鳥類の繁殖地(天然記念物題333号)、崔瑩将軍祠堂(済州記念物第11号)、楸子処士閣(済州有形文化財第9号)などが文化財指定されている他、2010年6月には済州オルレ18-1コースとして、楸子島オルレウォーキングコースがオープンしました。楸子面事務所を基点として楸子島で最も大きな島である上楸子島と下楸子島の峰をつなぐ往復17.7キロメートルのコースで、山の峰が多いため散歩というより登山に近く、済州オルレコースの中で難易度が最も高いコースとなっています。


ソウル(鍾路区)

ファッション関係の店が軒を連ねる東大門、いまではアジア最大級のファッションショッピングエリアと言っても過言ではないのがここ東大門周辺エリアです。今日の東大門の姿になった背景には東大門の生地市場や平和市場、そして周囲にある市場で働く人々がいたからにほかなりません。 およそ30年前、そんな東大門で働く人々の空腹を満たし心のよりどころとなったのが現在の東大門タッカンマリ通りでした。 ソウル地下鉄1・4号線東大門駅9番出口から外に出て鍾路の大通りをそのまま直進、IBK企業銀行の建物の角を左に曲がると一方通行の比較的大きな道があります。この道には今も東大門総合市場や近くの市場へ品物を運ぶバイク便のバイクが所狭しと止まっています。その道の中ほど、右手にトクソン閣という中華料理店がありますが、その中華料理屋のある建物の角を右に曲がり路地を入ると、軒を連ねたタッカンマリのお店が見えます。 この路地にあるタッカンマリの店は創業5年から、古いところでは創業30年を超える店もあります。 しかし現在のタッカンマリのお店が立ち並び始めた30年前よりもっと遡ると、この場所にはその昔、個人経営の鶏肉入りのカルククス・タッカルククスの小さなお店がある程度でした。その当時タッカルククスのお店を開いていたとあるおばあさんのお店を28年前に譲り受け、現在に至るまでタッカンマリの店を切り盛りしてきた食堂の主人の話によると、おばあさんが一人で、いまのタッカンマリのような料理ではなく、鶏肉を入れたカルククスの店をやっていたといいます。当時は瓦葺屋根の韓屋のお店の板の間や個室でお客さんがカルククスをすすっていたといいます。現在では譲り受けた店主が韓屋の中庭だったところに食堂を増築しテーブルを置いてお客さんを迎えています。 現在この通りで最も古いお店は「陳玉華タッカンマリ」というお店です。しかし出火により当時の建物はなく、現在の建物は2009年2月に建て直したものです。この一番古いお店も最初は現在のタッカンマリのような料理ではなくタッカルククスのお店でした。そう考えると東大門タッカンマリ通りの料理のルーツははタッカルククスだったと言えます。今もこの通りの食堂の看板や入口玄関、窓ガラスには「タッカルククス」と書かれた文字を見かけます。また「タッカンマリ」と一緒にメニューに書かれているカルククスサリ(カルククスの麺)が残っているのもその名残です。 このように見てみると、昔は鶏肉入りのカルククスだったのものが、今では鶏肉がメインになり最後の〆でカルククスの麺を入れて食べるタッカンマリが看板メニューになり、時代の流れでカルククスがメイン料理の座を鶏肉に譲ったような形になったとも言えます。 タッカンマリの料理は店ごとにあまり差がないように見受けられがちですが、鶏肉に付けて食べる特製たれの味や鍋のスープ、追加で鍋に入れられる食材が各店異なっています。そのためこの通りに軒を連ねるタッカンマリの店では特製のつけだれやスープの作り方や材料については一部明かしているものの、肝心な部分は秘中の秘となっています。ちなみにつけだれに使われる唐辛子粉は質のよいものを使わなければならないと言われています。ただ辛いだけの唐辛子でなく、辛さがありながらも豊かな味わいとコクがなくてはならないそうです。またスープに入る食材もハギキリ、高麗人参など店により異なります。 大きな鍋にスープをなみなみ入れて、その中で鶏肉を丸ごと1匹煮込むタッカンマリ。鶏肉はお客さんに出される前にすでにある程度調理されて出てきますが、テーブルの上に置かれたガスコンロでも十分煮込んで食べるのがおすすめです。というのも鶏肉と一緒に鍋に入っているジャガイモや餅、高麗人参、ナツメ、しいたけなどの食材の味を十分に引き出し、さまざまな味が染み出てブレンドされたスープになって初めて美味しいタッカンマリになるからです。タッカンマリという料理は、十分に煮込んで鶏肉や鍋の具を食べた後、〆に残った鍋のスープにカルククスの麺を入れて食べて、一連の食事が終わります。 いまでもこの通りの常連の半分以上が東大門界隈の市場で働く人たちといいます。この通りの評判は日本にまで広がり、日本人旅行客も数多くこの通りを訪れます。 また、美味しい料理が食べられる昔ながらの横丁が好きな若いカップルがインターネットで情報を基に苦労してわざわざこの通りまでやってくるといいます。 若い世代の人々の口にも30年前の「タッカンマリ」の味わいが復活しています。


慶尚北道(蔚珍郡 )

蔚珍(ウルチン)郡の最南端にある厚浦港(フポハン)では、東海でとれる魚のほとんどが見られます。厚浦港の裏の坂の上には厚浦灯台があります。厚浦灯台は夜になると灯かりをともし、昼には展望台の役割を果たします。灯台のある坂の上には、子供たちの遊び場や休憩所もあります。坂の上からは、海や蔚珍郡の姿だけでなく、高さ1004mの白岩山を見ることもできます。明け方の厚浦港では、とれたての魚と市場の様子を見物したり、新鮮な魚を安くで買うことができます。また、厚浦港には刺身の店がたくさんあることで有名で、温泉も近くにあります。


慶尚南道(統営市 )

全爀林美術館は統営の弥勒島にある龍華寺に行く道沿いにあり、全爀林画伯が1975年から30年近く生活をしていた家を取り壊して新しく建てた空間で、2003年5月11日に開館しました。建物の外壁は全爀林画伯の絵と息子の作品を20×20cmのセラミックタイル約7,500枚で制作し、統営のイメージと画伯の芸術的なイメージを表現しました。3階の壁全面は画伯の1992年の作品をタイルで再構成したものです。


全羅北道(扶安郡 )

故沙浦海水浴場(コサポヘビョン)は、辺山海水浴場の南西側に位置する海水浴場です。それほど有名な海水浴場ではありませんが、辺山海水浴場と同様の海水浴場としての好条件を備えています。しかし、辺山海水浴場に比べてあまり知られていないため、静かに海水浴を楽しむことができます。 特に、海岸の後方に広がる松林が壮観をなしており、キャンプをするにも適しています。


大田広域市(東区)

大田(テジョン)広域市・東区八景に選ばれた大洞(テドン)ハヌル公園は2009年12月、ムジゲ(虹)プロジェクト事業の一環として造成された公園です。 大洞ハヌル公園には標高およそ127メートルの場所にこの公園を象徴する風車もあり、風車の前からはすがすがしい大田の全景を一望でき、また夜景も素晴らしいことで有名な場所です。 公園にはベンチや東屋もあり、都会の雑踏を離れ、穏やかなひと時を過ごせる場所にもなっています。 ハヌル公園へと続く道には壁画村やテーマカフェ村があり、近年、大田を代表するホットスポットとして注目を集めています。  


江原道(江陵市) , 江陵

1982年6月26日に鏡浦台道立公園に指定(面積9.471平方キロメートル)され、鏡浦台、鏡浦湖、鏡浦海水浴場を中心にたくさんの文化財や記念物がある地域です。関東八景の1つでもある鏡浦台は、小正月に月を見る名所であり、鏡浦湖は、この場所を訪れる人たちの癒しの場所です。 東海岸で最も海の水がきれいな所ろして知られる鏡浦海水浴場と、鏡浦湖、鏡浦台、放海亭、湖海亭、鏡浦亭、鏡陽祠などが点在しており、夏の海水浴だけではなく、春には花見の名所として、ロマンチックな冬の海など、1年中楽しめる観光地です。 *鏡浦八景 1)緑豆日の出 緑豆亭で東海からの日の出を見ることを言い昔、寒松亭があった現江陵飛行場の東側に位置し鏡浦台の真東を指します。明け方、真っ赤に燃える太陽が海まで赤く染めながら昇る景色は神秘的で思わずうっとりしてしまう美しさです。 2)竹島名月 湖の東側にある島の形をした小さな山で竹がいっぱい生えていたことから竹島と呼ばれたこの場所は現在の現代ホテルがある場所です。水平線上からこぼれる満月の光が竹林の隙間を通って射し込み湖を照らしてできる、まるで一枚の絵のような光景を「竹島名月」と呼びました。空にある月と海と湖に映る月とが柱をつくり白海から湖の真ん中を突き通って台の前までのびる光の、厳かな情景を賛美したものです。 3) 江門魚火 江門は鏡浦台の東にある湖の河口にあり、湖と海がつながるところであることから江門と呼びます。夜になるとイカ漁に出る船の灯りがきらきらと輝き、その光が海と湖に導かれる美しい光景を「江門魚火」といいます。 4)草堂炊煙 草堂は湖の東南側にある村で土地が湖や海より低いところにあるように見える村です。遠くから見ると深い僻地にある山里という感じで、村の周囲には松の木がうっそうとしており水を含んだ大地からは雑木と雑草が生い茂っています。太陽が西の山の山頂に傾く頃になると夕飯を作る家々の煙突から白い煙があがり、それが夕焼けに染まってのどかな農村風景を写し出します。その平和で安らかな美しさを表現したものです。 5)紅粧夜雨 紅粧(ホンジャン)は朝鮮時代初期にジョ・ウンフルという府史が江陵に住んでいた頃にいた妓生の女です。ある日某監察司が江陵を視察した際、府史は湖に浮かべた船の上に妓生である紅粧を呼びよせ、伽椰琴(カヤグム)を弾かせて監察司をもてなしました。ずば抜けた美貌をもつ紅粧はその夜監察司の愛を受けたのですが後日、監察司は数ヶ月後にまた来ると約束し江陵を去っていきました。しかし監察司からの便りはなく恋しさで胸を痛めた紅粧は、あの日のことを思い出しながら湖に出てきてため息をつきました。そのとき深い霧の中から監察司の幻像と紅粧を呼ぶ声が聞こえ、紅粧は声のする方へかけていきます。しかし紅粧は途中、湖に落ちて死んでしまいます。このときからこの岩を「紅粧岩」と呼ぶようになり、霧の深い雨の降る夜になると女の悲しそうな泣き声が聞こえると伝えられています。船に慕い人を乗せ伽椰琴の音に興じながら酒を一杯交わす、そんな昔の人々の風流精神を回想させる言葉です。 6)甑峯落照 シル(蒸籠)山は鏡浦台の西北方面にありその頂の姿が蒸籠と似ていることからこの名前がつきました。太陽が西に傾く頃になるとシル山の北側から鏡浦湖に映る夕日の光がさざなみでばらばらに散らばる美しい光景を表したものです。 7)喚仙吹篴 シル山のサンソン峰に新羅の仙人たちが風流をたしなみ囲碁をうって過ごしていた場所がありました。そこでは、ひっそりとした月明かりの夜になるとどこからかもの寂しい笛の音が風にのって聞こえてきたといいます。山紫水明の絶景からは今でもどこからか笛の音がかすかに聞こえてきそうな気がします。鏡浦台の「喚仙吹篴」は俗世を離れた仙人たちが囲碁をうち笛を吹いて楽しんでいた、その昔の姿を思い起こさせます。 8)寒寺暮鐘 寒寺亭は現在の飛行場の東にあります。緑豆亭と呼ばれたこの東屋は花郎徒(新羅時代、青少年で組織されていた修養団体)の修行の場として造られた場所で今は石池や石で造った井戸だけが残っています。新羅仏教が再興した頃、寒寺亭で日が沈む時にならす鐘の音が遠くからのさざなみに乗って神仙たちが遊んでいた鏡浦台までとどろいていたその時代の趣を想わせます。


忠清南道(泰安郡 )

安眠邑から西南に4キロほど行ったところにあるコッチ海水浴場(ヘスヨクチャン)は、長さ3.2キロ、幅300メートルの白い砂浜が続くビーチ。遠浅の浜で水がきれいで水温も低くないため海水浴を楽しむには最適とされており、大変人気の高い海水浴場です。すぐそばに港があって新鮮な海の幸を楽しめる他、海水浴場の前には伝説に出てくるお婆さん岩とお爺さん岩があり、ここを背景に見える日の出も美しく人気の高い名所となっています。


京畿道(烏山市 )

京畿道南西部にある都市で、東、西、北の3面は華城市、南は平沢市に隣接しています。面積42.76平方キロメートル、総人口208,608人(2015年1月)、6つの洞、8つの法定洞から構成されています。市庁所在地は鳥山洞です。 *自然環境 太白山脈から分岐した廣州山脈の裾野に位置し、ヤンサン峰、如鶏山、ノジョク峰など、標高200mほどの山並みが続いています。市の東部には、鳥山川が、西部の境界線には、黄口池川が流れ、牙山湖へと流れ込みます。 *歴史 古代-三韓時代、馬韓の54諸国のうちの1国「牟水国(モスグク)」に属し、高句麗時代に入り、「買忽(メホル)郡」と呼ばれるようになります。三国統一後は、新羅の領土となり、757年(景徳王16年)水城(スソン)郡と名称を改めます。 高麗-934年(太祖17年)水州(スジュ)へ昇格し、1271年(元宗12年)水原都護府へと昇格します。 朝鮮時代-1394年(太祖3年)京畿道へ編入され、1793年(正祖17年)留守府へと昇格します。 近代-1895年(高宗32年)、水原郡に改名したものの、翌年、京畿道水原郡へ再度編入することになります。同年、水原郡が京畿道管轄地区となり、1914年、南陽郡が水原郡に併合されます。この時、鳥山市一帯のチョンホ面、サンソン面、チョピョン面、ムンシ面などが城湖(ソンホ)面へ統合されます。 現代-1960年代、鳥山邑へ昇格、1989年、鳥山邑が市へと昇格し、華城市から分離されるようになります。 *文化 民俗-この地域のユンノリ(韓国スゴロク)大会は、鳥山米市場にある広場で旧暦1月8日から始まり、14日まで開かれます。参加者は地元住民限り。 祭り-毎年、内三美(ネサンミ)洞では、旧暦9月30日午後9時からピル峰で山神祭が行われます。


忠清北道(丹陽郡 )

丹陽駅は1942年営業を始めましたが忠州ダムの建設によって一部地域が水没して1985年に丹陽駅と旧丹陽駅に分離して新築されました。旧丹陽駅は丹城駅となり、丹陽駅は今の位置に移転されました。南漢江と流麗な山がある駅で列車カフェや公園、かわいらしいプラットフォームが印象的な駅です。