ソウル(永登浦区)

憲政記念館は1998年5月29日、国会開院50周年記念事業の一環で開設された記念館で、韓国国民をはじめ一般の方に公開されています。


仁川(中区) , 仁川市街地

仁川郵逓局(現・仁川中洞郵逓局[郵便局])は仁川広域市中区港洞(ハンドン)にある日帝強占期の建物。1982年3月2日仁川広域市有形文化財第8号に指定されました。日帝強占期の1924年、郵便業務を担当するため建てられた近代式の建物で、当時の官庁としては大きな規模です。建設当時の名称は仁川郵便局でしたが、1949年8月に仁川郵逓局と改称しました。 この当時流行した折衷主義の建築様式を単純化した建物で、総面積1,787平方メートル(約540坪)です。正面入口は建物本体から張り出される形で造られ両側に大きな柱を配置、その正面玄関上部の建物本体2階部分からは柱の上部にある屋根などの上部建造物の重さを和らげ装飾が施されている柱頭がない数本の柱で建物を支えています。 当時、行政官庁の建物は上部にドームの形をした塔屋を造るのが一般的でしたが、この建物はこの部分を省略するなど平面構造や外観の細部が基本的な形式からやや外れています。 全体的な構造は煉瓦造りですが、床はコンクリートで施工されています。外部の仕上げは外壁の下部にのみ花崗岩を二段積みにしその上の部分にはモルタルで処理し石造の模様を表現しています。 韓国戦争(1950~1953年)当時の市街戦などにより一部が破損、屋根がスラブ材からスレート葺きに改修されるなどし1957年復旧工事が完了しました。


慶尚北道(蔚珍郡 )

蔚珍郡近南面山浦里にある望洋海水浴場近くの丘に位置しています。この辺りの風景は詩や絵画で多く描かれその美しさがうかがえます。朝鮮王朝の肅宗(朝鮮第19代王)が関東八景の絵を見てここを気に入り、「関東第一楼」という文を書いて送り望洋亭に飾るように言ったといいます。高麗時代には望洋亭がここより北の望洋里にある縣鐘山にありましたが1858年に現在の場所へ移され、1958年に修繕されました。周りを松林に囲まれた丘の下には白い砂浜があり王避川という川が海に向かって流れ、望洋亭からは広い海が一望できます。昔から夕日と月が綺麗に見える場所として有名で、朝鮮王朝時代は肅宗がよくこの場所を訪れ美しい景色を観賞した他、鄭徹、金時習などの有名な文人たちもこの風景を楽しんだといいます。王避川という名前も、ここに王が避難してきたからだとも言われていますが、避暑の地として王が訪れていた場所であったからと伝えられています。望洋海水浴場は比較的水深が浅く幅も狭いですが、東海岸にある海水浴場の中では水温が高い方で、周辺には松の木が生い茂りとても静かで散歩するのに良いところです。波が穏やかな時は海の中にあるカメの岩が見えます。海水浴場周辺には天然記念物第155号に指定されている聖留窟や仏影渓谷、海岸道路などの観光名所も多く、観光を兼ねた避暑地としてその名が知られています。


ソウル(鍾路区) , 仁寺洞・鍾路

※ 2019~2020 韓国観光100選 ※ 慶熙宮(キョンヒグン)興化門(フンファムン)は朝鮮時代の光海君8(1616)年に建立された慶熙宮の正門です。 慶熙宮は建立当初、慶徳宮(キョンドックン)と呼ばれ、景福宮(キョンボックン)を北闕(プックォル=北の王宮の意)、昌徳宮(チャンドックン)を東闕(トングォル)と別名呼んでいたことから、西闕(ソグォル)とも呼ばれていました。 元々この場所には朝鮮時代の第16代の王・仁祖(インジョ・1595~1649年)の実父で第14代の王・元宗(ウォンジョン・1580~1619年)が王位に就く前に暮らしていた潜邸がありましたが、第15代の王・光海君(クァンヘグン・1575~1641年)がこの潜邸の場所が風水地理でいう王を誕生させる王気が集まる土地と信じ、この家を奪い、新たに慶徳宮を建立するに至りました。 日帝強占期の1910年には慶熙宮を取り壊し、京城中学校(現在のソウル高等学校の前身)を設立しました。この時、興化門は残されましたが、1932年、安重根(アン・ジュングン)義士が暗殺した伊藤博文の祠堂・博文寺の正門として移築されました。 1979年、新羅ホテルが博文寺があったソウル特別市中区(チュング)奨忠洞(チャンチュンドン)にオープンし、一時、新羅ホテルの正門として使われましたが、1988年再び現在の地に移築されました。 なお慶熙宮は1986年にソウル市により公園として開放されています。


ソウル(鍾路区)

駱山(ナクサン)の麓にある採石場と呼ばれる一帯は、日帝強占期(1910~1945年)朝鮮総督府や旧ソウル駅などを建設する際に石材を切り出した場所でした。 韓国戦争(1950~1953年・休戦)以降、ここに人々が引っ越しはじめ、また戦争避難民も住み始めたことから、次第に街が形成されていきました。 2007年には一帯がニュータウン地域に指定され、団地が建設されるところでしたが、住民らの反対により指定が取り消されたという経緯があります。 現在ではこのエリアは韓国の都市再生のモデルケースとして高く評価されている地域になりました。 2019年11月に採石場跡地の小高い丘の上にオープンした昌信(チャンシン)崇仁(スンイン)採石場展望台は、ソウルの景色が一望できる素晴らしい展望台です。展望台からの眺望が素晴らしく、いまでは数多くの人々が訪れています。


ソウル(中区)

大韓民国臨時政府ソウル連通府(聯通府)跡は、1919年、中国・上海に樹立された大韓民国臨時政府が国内と連絡を取り、国内行政を担当するため秘密裏に組織された大韓民国臨時政府直轄のソウル連通部(ヨントンブ)があった場所です。 現在はソウル特別市中区(チュング)巡和洞(スナドン)にある同和(トンファ)薬品の旧社屋前に石碑が残されています。


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嶺南(ヨンナム)アルプスは蔚山(ウルサン)、密陽(ミリャン)、梁山(ヤンサン)、慶州(キョンジュ)と境を接する迦智山(カジサン)を中心に海抜1,000メートル以上の山々が素晴らしい稜線と風景を作り出す山系で、ヨーロッパのアルプスになぞらえて付けられた名称です。 元々、迦智山、肝月山(カンウォルサン)、神仏山(シンブルサン)、霊鷲山(ヨンチュクサン)、天皇山(チョナンサン)、載薬山(チェヤクサン)、高献山(コホンサン)の7つの山を称したものですが、雲門山(ウンムンサン)、文福山(ムンボクサン)を含めることもあります。 嶺南アルプスは総面積およそ255平方キロメートルで、一年を通じて美しいところとして有名ですが、特に秋は山のあちらこちらでススキが生い茂り幻想的な風景となります。この頃になると全国各地から登山客がひっきりなしにやって来るところでもあります。 また通渡寺(トンドサ)、雲門寺(ウンムンサ)、石南寺(ソクナムサ/ソンナムサ)、表忠寺(ピョチュンサ)など由緒ある寺も多く、また奇石が立ちはだかる絶壁が周囲の風景と調和をなし素晴らしい風景となっています。嶺南アルプスは様々な動植物も数多く生息していることから、自然が作る巨大な動植物園とも呼ばれています。 嶺南アルプスは大変美しい自然の宝庫で、それだけに楽しめる場所も多く、山道、渓谷、砂利道、藪を一気に走り抜けるマウンテンバイクや嶺南アルプスの風景を上空から一望できるパラグライダーなどもお楽しみ頂けます。  


全羅南道(新安郡 )

塩博物館の建物は、1945年の塩田設立初期に建築された石造塩倉庫を利用して建てられました。この石造倉庫は現在使用されている木造の塩倉庫より前に建てられたもので、資材倉庫として使われていたものを改装し、2007年に塩博物館としてオープンしました。建物が昔のままに残されているため、塩田の歴史の貴重な資料となっており、近代の石造建築の姿を窺い知ることができます。博物館では塩の歴史、文化、ミネラル、天日塩田など、塩に関する有益な情報を提供しています。その他、塩の経済史、技術史、神話、芸術史などについても知ることができます。太平塩田の人々の日常や、天日塩が作られる過程が一目で見られるように構成されており、最近注目されているアッケシソウに関する情報も得ることができます。オープン日:2007年7月14日指定現況:大韓民国近代文化遺産第361号


慶尚南道(梁山市 )

迦智山道立公園区域内にある海抜1,059mの霊鷲山(ヨンチュクサン)は、景観が美しいことから嶺南アルプスと呼ばれています。山の下方を流れる渓谷は、通度寺周辺の庵と繋がっており、散策を楽しむのに調度良いコースとなっています。通度寺は梁山8景のうちのひとつでもあります。


全羅北道(群山市 )

日帝強占期に群山で大規模農場を経営していた日本人の大地主、熊本利平が建てた別荘で、一年で春と秋に農場を訪れた際に一時的に使用していました。西洋式、日本式など様々な建築様式が折衷されて建てられたのが特徴で、終戦後、韓国農村保健衛生の先駆者である李永春博士が居住したことから、李永春家屋とも呼ばれています。美しい建物の外観は「氷点」、「砂時計」、「野人時代」など数多くの映画とドラマの撮影場所となりました。李永春博士は、韓国のシュバイツァーと呼ばれ、平安南道龍岡郡で1903年10月に生まれました。平壌高等小学校司法科時代の担任だった京城帝大の渡辺教授の紹介で熊本農場に所属する約2万人の小作農家族を世話するために1935年4月、33才という若さで慈恵医院長として赴任することになりました。李永春は韓国で最初の看護教師と医療保険組合を実施しました。