京畿道(利川市)

利川エリア最大のランドマークとして知られるミランダホテル(MIRANDA HOTEL)は、地下1階、地上10階の本館、地上3階の別館など合わせて8千坪あまりのホテルと1万坪のスパプラス(ウォーターパーク、スパゾーン、チムジルバン)を有しています。室内プール、子ども用水遊びプール、イベント湯など、家族で楽しめる施設だけでなく人工波、韓国最長・スリル満点のウォータースライダーなど、多彩な施設を誇り、さまざなま楽しみ方ができます。


釜山広域市(西区)

釜山は韓国戦争(朝鮮戦争)1129日のうち1023日間、大韓民国の臨時首都でした。臨時首都政府庁舎と大統領官邸をはじめとした立法・司法・行政機関があった西区は、臨時首都の心臓部として全国民が国難克服の力と知恵を集めた所です。全国各地から集まった避難民が故郷を失った痛みと戦争の廃墟のなかにありながらも新たな希望を見出した釜山独特の風景「山腹道路」をつくりあげました。 臨時首都記念館、臨時首都記念通り、臨臨時首都政府庁舎(現・東亜大石堂博物館)、峨嵋洞碑石文化村といった当時の建築・文化資産と各種展示・公演・体験プログラムで激動の韓国現代史の片鱗に触れる「避難首都釜山夜行」を通じて韓国唯一の「避難首都釜山」の価値を感じてください。


慶尚北道(安東市 )


慶尚北道(安東市 )


京畿道(南楊州市) , 南楊州

天摩山(チョンマサン)は京畿道南楊州市(ナミャンジュシ)の中心に位置する標高812mの山です。 天摩山は冬になると山頂部分が白い雪が覆い雪山の姿を見せ、春には新緑が、夏になると青々とした深緑色、そして秋には紅葉が絵画のように色づき、四季を通じて風光明媚なところです。 天摩山山頂の西南方向近くには高い絶壁の岩があり、人々はこの岩を「薬水パウィ」と呼んでいます。この岩には一年を通じて枯れることなく湧き水が湧いてくることからそう言われるようになりました。山麓には数多くの研修院や修練場が、南の山麓には天摩山スキー場がありここはソウル郊外のレジャー施設として人気があります。北側の山麓には普光寺(プグァンサン)があります。


釜山広域市(蓮堤区)

釜山広域市蓮堤区(ヨンジェグ)にあるセントラルホテルは釜山の中心地に位置し、季節や目的を問わず安らかに過せるホテルです。釜山地下鉄1・3号線蓮山(ヨンサン)駅から50メートルの近くにあり、また釜山駅、釜山・金海国際空港、国際線及びフェリー航路を利用できる釜山旅客ターミナルへは車で30分圏内にあり、交通のアクセスがよい立地条件のところにあります。 1階には銀行があり一般の銀行業務の他、外貨両替も可能です。またコーヒーショップやレストランなどもあります。 朝食サービス(有料)もあり、また日本語や英語による案内サービスも行っております。


5.0/2
ソウル(永登浦区) , 汝矣島・永登浦・麻浦

2006年にスタートした「ソウルドラマアワード」は、全世界のテレビドラマを素材とするイベントで、全世界のドラマおよび放送関係者のコミュニケーションの場もとなっています。韓流の活性化、健全な国民祭り文化の形成、ソウルの観光マーケティング活性化、ドラマ関係者の相互調和を図るという目標を持ち、新たな飛躍を試みています。


慶尚南道(南海郡 )

標高1,209mの神仏山(シンブルサン)は北側の1,083mの肝月山(カンウォルサン)とともに1983年11月3日に蔚州郡の郡立公園に指定されました。山の東側は絶壁をなしており、奇岩怪石が屹立しています。この山は四季を通して景色が美しいため、嶺南アルプスと呼ばれています。


京畿道(南楊州市) , 南楊州


釜山広域市(東莱区)

東莱邑城址(トンネウプソンジ)は、東将台(トンジャンデ)がある忠烈祠(チュンニョルサ)の裏山から馬安山(マアンサン)を通り、西将台がある東莱郷校の裏山までの丘陵地や現在の東莱(トンネ)市街地中心の平坦な地域を一部含む典型的な平山城の形式で築城した城郭址です。東莱邑城は山城や平地の利点の双方を持つ、代表的な邑城でした。 高麗時代末期から朝鮮時代初期に築き上げられたものとみられる東莱邑城は、1592(宣祖25)年の壬辰倭乱(日本でいう「文禄・慶長の役」)の際、この地域を治める東莱府使・宋象賢(ソン・サンヒョン)公をはじめとする軍・官・民あらゆる人々が渾然一体となり倭軍に立ち向かい、壮烈な戦いが繰り広げられた壬辰倭乱初期最大の激戦地でした。 壬辰倭乱以降放置されていた東莱邑城でしたが、1731(英祖7)年、東莱府使の鄭彦燮(チョン・オンソプ)が国の要である東莱の重要性を鑑み、壬辰倭乱当時の邑城よりもさらに大規模な邑城を築きました。この時築城した邑城が現在までその痕跡を残している東莱邑城です。 東莱邑城には東門、西門、南門、北門、人生門、そして暗門があり、それぞれの門には門楼もあります。 東門には志喜楼(チヒル)、西門には心成楼(シムソンヌ)、南門には無憂楼(ムウル)、暗門には隠一楼(ウニルル)と言われる楼閣があります。 また重要な門楼であった南門には翼城(イクソン)を設け、前面に洗兵門(セビョンムン)、後方に朱鳥門(チュジョムン)を置く二重構造となっているほか、西門・暗門・北門には敵からの攻撃から守るため城門の前方に半円形の城郭を設けた甕城(ウンソン)の形式となっていました。ほかにも東莱邑城には、城内の高台に設けた建物で将帥が敵の動きを監視したり兵を指揮する為の指揮台・将台(チャンデ)、望楼(マンヌ)及び15の堡楼(ポル)などもありました。 日帝強占期(1910~1945年)になると、市街地計画という名目で西門から南門にいたる平地にあった城郭が撤去されたほか、南門から東門に至る城郭のあった場所にも民家が建てられ、結果、馬安山を中心とする山地にのみ城郭の姿がわずかに残るだけとなりました。 2000年代以降、東莱邑城内の敷地で行われた様々な工事の際の発掘調査により、壬辰倭乱当時の城郭の痕跡(朝鮮時代前期の邑城)や壬辰倭乱以降築かれた平地に築城された城郭の痕跡、そして朝鮮時代末期に修築された城郭を確認することができました。 これら発掘調査により、東莱邑城全体の正確な範囲、規模などが分かり、東莱邑城研究に多大な貢献をもたらしました。 釜山広域市では現存する城跡を中心に、毀損あるいは放置されたままとなっている城郭については発掘調査とともに補修・復元を今度とも推進する予定です。 <出典:釜山文化観光>