京畿道(漣川郡)

韓国戦争以前にソウルと元山を行き来し、人や物資を運んでいた鉄道は今新炭里駅で引き返しています。新炭里駅から昔の鉄原駅を通り休戦ラインを越え、平康までの間は現在鉄道がなくなってしまっている状態です。北韓では平康-洗浦-高山-龍池院-元山などを通り高原まで続く京元線を「江原線」と呼んでいます。現在新炭里駅の近くにある「鉄馬は走りたい」という京元線鉄道の南側中断点を物語る標識が、分断の悲しみを伝えています。2005年基準で漣川群を通る京元線の鉄道駅数は全部で7つありますが、この中で最初に設置された駅は全谷駅、漣川駅で、1912年7月25日に普通駅として営業を開始しました。そして翌年の1913年7月10日に新炭里駅が簡易駅として営業を開始し、1954年7月1日には普通駅として営業を開始しました。これら4つの駅は京元線が開通する前に作られた駅であり、日帝強占期にはこの4つの駅のみが運営されていました。その後、哨城里駅が普通駅として営業を開始し、戦後1956年10月1日に新望里駅に乙種委託販売所が設置されました。さらに漢灘江国民観光地が作られ、観光客が押し寄せたので、これに対応するため1975年6月28日に漢灘江駅が開設され簡易駅として営業を開始しました。


済州道(済州市 )

牛島峰麓の峡谷の下にあり、黒い砂浜を持つコムモルレ海水浴場は、全長約100m程の小さな海岸です。黒い砂浜を越え海に向かうと、今にでも手の届きそうな位近くに感じられる太陽。海岸の端には、昔クジラが住んでいたと言われる洞窟があり、洞窟の中では冷たい水を飲んでみることもできます。


江原道(三陟市)

天恩寺(チョヌンサ)は、李承休が韓民族の大敍事詩である帝王韻紀を執筆した場所です。創建の歴史は、758年にインドからやって来た3人の僧侶である頭陀三仙が白い蓮の花を携えてやって来て建てたといわれています。その後、829年に梵日国師が極楽宝殿を建立したことで寺としての基盤が築かれました。高麗の忠烈王の時代に李承休が改修し、ここで大蔵を全て読んだということで看蔵庵と呼ばれ、そして朝鮮の宣祖の時には西山大師が寺を再建し、黒岳寺と名づけました。1899年には李成桂の4代祖の墓である穆祖陵が未老面活耆里につくられ、この寺を願堂寺刹として「王からの恩恵をあずかった寺」ということで天恩寺と呼ぶようになりました。 韓国戦争(朝鮮戦争)の際に焼失してしまいましたが、1983年にムン・イルボン僧侶が再建しました。境内へと続く砂利の小道の両側には桜の木が植わっており、春になると桃色の桜の花が満開に咲き誇ります。


ソウル(鍾路区)

ソウルの中心部・鍾路の繁華街にあり、交通の便が大変よく、ビジネスマンや観光客によく知られたホテルです。 近くには歴史的な観光名所が多く、徳寿宮、景福宮、昌慶宮、光化門、秘苑、ソウルNタワーがあるほか、デパート、東大門・南大門市場、仁寺洞伝統通り、パゴダ公園、清渓川、大型書店、映画館などもあり、観光とショッピングが一緒にできる良い立地条件の場所にあります。


ソウル(永登浦区)

ソウル特別市創作空間・文来(ムルレ)芸術工場は、自然発生的に生まれた芸術村・文来創作村にある、国内外のアーティストのための創作支援センターで、2010年1月28日に開館しました。 文来芸術工場は文来洞鉄工所通りのひと昔前まで昔の鉄材を取り扱っていた専門街の一角に専門創作スペースとして新たに建設られました。 共同作業室、多目的発表場をはじめ、レコーディング室、セミナー室など創作発表活動のための様々な支援施設を兼ね備えています。


釜山広域市(海雲台区)

20年以上同じ場所で営業をつづける「セアチムマッチプ」は、すぐ近くに海があり、とれたての新鮮な食材を使った料理がおいしいと評判のお店で、各種マスコミにも登場しています。日本から訪れる人々も多く、1988年オリンピック時には模範飲食店に推薦されたこともあります。


江原道(華川郡)

「碑木公園(ピモクコンウォン)」は、平和のダム周辺に造られた公園で、6.25戦争(朝鮮戦争)の痛みと、犠牲になった若い無名の勇士たちの魂を称える場所であると同時に、国民歌曲「碑木」誕生の地でもあります。作詞家ハン・ミョンヒは1960年代中頃、平和のダムから北に14キロメートル離れた百巌山渓谷非武装地帯で軍生活を送っていました。ある日偶然、雑草の生い茂る場所で無名の勇士のさびた鉄兜と石の墓を見つけ、その墓の主が戦争当時、自分と同じくらいの若さだっただろう想いながら作詞をし、作曲家チャン・イルナムがこの歌詞に曲を付けて「碑木」が誕生しました。この曲は1970年代中盤から知られはじめ、今でも広く愛されています。


ソウル(中区)

南大門市場には衣類や輸入品が有名ですが、単一品目を取り扱う商店街として規模が大きいのがこのアクセサリー商店街です。 退渓路沿いの南大門市場側や南大門路の市場側に店舗が集中、約2000のアクセサリー専門店が入店しており韓国国内でも最も大きい規模です。一つの品目だけ専門に取り扱う店舗が多く、金・銀メッキ、自然素材プラスチックなどのヘアピンから、アンクレット、ネックレスまで体に身に付けるアクセサリー、衣類や帽子などに使われるあらゆる種類のアクセサリーを直接製造・販売し、韓国国内のみならず海外でも専門アクセサリー商店街として有名です。


仁川(中区)

虹のような形をしていることから名付けられた虹霓門(ホンイェムン)は、仁川(インチョン)の南北の行き来の不便さを解消するため、鉄道敷設の任を預かっていた日本の工兵隊が1906年に着工、1908年に完成したもので、当初は穴門と呼ばれていました。 各国の租界が作られた当時、朝鮮政府の計画に反対した日本人は、朝鮮や満州への侵略の計画、そして仁川へ集まる日本人の居住地拡大の問題が現実化し、日本人租界の拡大を目論んでいました。 当時、仁川の街の交通事情は大変劣悪なもので、日本人租界や仁川の港から、仁川の街の北側、現在の仁川駅の北にある当時の仁川の中心地・万石洞(マンソクドン)方面へ向かうためには、北西の海岸沿いにぐるっと迂回して行けねばなりませんでした。 そこで、日本人らは比較的、短距離で仁川の南から北への行くことができる、現在の松鶴洞(ソンハクトン)の丘を削り、万石洞へ通じる道を開き、その場所に花崗石造りの虹霓門を築き、測候所などがある北側への進出を企てました。 虹霓門の築造様式は花崗石と煉瓦を同時に使ったアーチ構造で、当時の日本の土木工法や建材を知ることができる比較的原型を留めている史跡として価値があります。


慶尚北道(安東市 )

およそ150年の歴史を持つ志山古宅(チサンコテク)は2010年慶尚北道民俗資料140号に指定された建物です。 広々とした芝生の庭に建つこの韓屋は歳月の痕跡が残る古風な趣を醸し出している素晴らしい韓屋でもあります。 志山古宅には静かな休息スペースがあり、またさまざまな体験プログラムも実施、人々の足が途切れない場所でもあります。 安東河回村(ハフェマウル)にある志山古宅は1857年、朝鮮時代の王・哲宗(チョルジョン=在位:1849~1863年)の時代に文科の試験に合格し、承政院右承旨、司諌院大司諌、安東府使などを歴任した志山・柳芝栄(リュ・ジヨン)先生が1841年に当時の朝鮮の王・憲宗(ホンジョン)から分財を受けた韓屋です。 元々、堂号は依養堂で、「清廉潔白」と「存心養性」を守り続けた志山先生の信念に敬意を表し、この建物を依養堂と呼んでいました。 この他にも志山古宅は現存する博物館として2009年から先祖代々継承してきた2,950点の遺物を国学振興院に委託保管しています。 低めの石塀に囲まれた志山古宅に一歩足を踏み入れると、まず芝生の中庭が目に飛び込んできます。中庭の花壇には鳳仙花、牡丹、コスモスなどが咲いており、片隅にはさまざまな甕が並んでいます。 そして芝生の向こうにある舎廊房(サランバン)をぐるっと回ってくると「コ」の字型の母屋と「一」の字型の離れが合いまり、まるで「口」の字型の韓屋の構造をなしていることが分かります。 元々、舎廊房と奥の間は離れて造られるのが常ですが、韓屋を大きくしたくない志山先生の信念を受けて、くっついた構造で作られたといいます。しかしながら、当時は男性が過ごす空間と女性を過ごす空間が分けられていた時代だけあって、舎廊房から奥の間が見えない構造で造られています。この他にも、韓屋に多く見られる敷地入口の高さのある大門や祀堂も意図的に造らなかったといいます。 志山古宅には客室が4室あります。広々とした板の間を中心に片方の脇には奥の間が、その反対側の脇には男主人の居間である上房(サンバン)があり、上房の隣には舎廊房の部屋が続いています。全室とも板の間や縁側があり、外に出て韓屋の周囲の素晴らしい風景を眺めることもできます。 板の間はかなり広々としているので、家族みんながあつまりお茶を一杯飲むのにもよい場所です。韓屋の周りの石塀は低めで、敷地入口の大門も高くなく、遠くに見える山の稜線や河回村の瓦屋根も敷地内から一望できます。