ソウル(江西区) , ソウル西部

エアポート観光(クァングァン)ホテル


京畿道(議政府市) , 議政府

1957年にオープン、1963年から「志東館(チドングァン)」という名で営業を続けています。華僑の料理人が腕をふるう伝統中華料理店で、現在は2代目が店を引き継ぎ、議政府を代表する店となっています。 厳選した素材だけを使って調理した料理は逸品で、長い歴史と伝統にふさわしいメニューを取り揃えています。


江原道(楊口郡)

方山地域の白磁が展示された楊口白磁博物館(旧方山磁器博物館)は、所蔵品をはじめ、陶枕、甲足などの窯道具などが展示されている他、様々な映像が上映されており、方山地域の白磁の流れを知ることができます。体験室は電気窯、ガス窯、薪窯などを完備、野外および室内の体験を兼ねることができる施設として広さ70坪余りの場所に置かれています。 ここでは土を作る方法や成形、そして窯で直接焼いて磁器が作られる全過程を体験することができます。 陶磁器生産地として楊口方山面はすでに高麗時代から注目され、朝鮮時代には京畿道広州の分院里に原料を供給した所で、広州分院の技術と造形美が移植された場所でもあります。方山面一帯の陶甕址地表調査の結果、40基の窯の跡が確認されており、当地域は楊口郡内の現方山面所属の長坪里、七田里、峴里、松峴里、五味里、金岳里など6ヶ所と、隣接した楊口邑の上無龍里を含んだ合計7つの地域から構成されています。 長坪里では7基、七田里5基、硯里4基、松硯里7基、金岳里4基、五味里4基、上無龍里9基など、合計40基が確認され、 約7つの地域で白磁を製作する時に使ったと推定される原料が確認されました。 朝鮮時代後期に王室の分院で生産されていた白磁原料の主な供給地の一つが楊口郡であったことから、原料の需給関係を通した広州分院白磁との関連性を伝えています。実際に楊口で採集される白磁、青華白瓷などは、特に朝鮮後期の分院白磁との造形的相互関係が非常に高いとされています。韓国戦争(朝鮮戦争)勃発前まで窯業が続いた所で、朝鮮時代から近代へと移行する時期の韓国の近代陶磁産業の実状を把握することができる重要な遺跡との評価を得ています。 楊口方山の白磁生産の600年の歴史を伝えるこの展示館では、朝鮮王朝最後の官窯、分院里青華白瓷と肩を並べ、王室白磁を庶民層にも広めた朝鮮白磁の最後の花、方山青華白瓷の甕を中心に、良質な楊口白土が創り出した白い朝鮮白磁の光とその流れが展示されています。


全羅南道(麗水市 )

麗水ピンノリヤは日没からイルミネーションを点灯し市民と観光客を迎えます。願いの光トンネルやひまわり公園、各種フォトゾーンなどと合わせて行われるイベントも楽しめます。  


慶尚南道(河東郡 )


済州道(済州市 )

世界7大自然景観に選ばれた済州市に位置するナビス・ホテルでは、窓の向こうから聞こえる波の音、漢拏山の静けさ、夜空に限りなく広がるたくさんの星が楽しめます。ナビスはラテン語で航海を意味する言葉で、済州の神秘と美しいロマン、そして素敵な思い出を作ってくれるでしょう。済州島には、漢拏山や城山日出峰、天地淵瀑布と正房瀑布、牛島など数え切れないほどの観光名所の他に、新鮮な刺身や黒豚などのグルメもたくさんあります。


江原道(高城郡)

DMZ博物館は南北の平和と安全を願う全国民の願いをこめて東海岸の最北端の軍事境界線に近接した民間人統制区域とその内側にあります。地球上に残っている唯一の分断国家の象徴であるDMZを通して、韓国戦争(朝鮮戦争)の勃発前後の様子と休戦協定によって誕生した休戦ラインが持つ歴史的な意味、これによる同族間の離散家族の悲しみ、持続する軍事的な衝突、60余年間、人の手が入らず、そのままの姿で保存されてきた生態環境などを展示物や映像で再構成しました。


釜山広域市(海雲台区)

ムーンタンロード(Moontan Road)は、釜山広域市海雲台(ヘウンデ)のタルマジコゲ(月見峠)にある散策路で、「月明かりを浴びながら歩く道」という意味が込められた道。 コッチャムキル、ガオンキル、パトゥキル、ハムケキル、マンナムキルの六つのコースがあり、歩いておよそ1時間から2時間ほどかかります。 ムーンタンロードの道すがらには、パダ(海)展望台、体育公園、タルマジオウルマダン(広場)、海月亭(ヘウォルジョン)などがあります。


江原道(寧越郡)

「東江国際写真祭り」は、江原道寧越で行われるお祭りで、写真文化の発展を目的に、様々な展示会や教育プログラムが実施されます。国際的な写真交流会を通じて、韓国の写真文化が国際的な流れに歩調を合わせていけるよう、支援しています。


ソウル(鍾路区)

若者の通り、文化の通りとして有名な大学路(テハンノ)の中心に文化芸術振興院の建物がありますが、この建物はソウル大学校本館の建物として長年使われていました。元々この建物は日帝強占期の1931年に京城帝国大学本館と建設されたものです。 1922年11月、李商在を代表とする朝鮮教育協会により朝鮮民立大学期成会を結成、1923年3月29日に発起人総会が開催されたことにより朝鮮民立大学の設立運動が本格化しました。日帝はこれを阻止すべく1923年5月京城帝国大学令を公布、翌1924年に京城帝国大学という官立大学を設立しました。 1924年にまず2年制の予科が設置され開校、その後1926年には3年制の法文学部と4年制の医学部を、1938年には理工学部を設置しました。 そして解放後の1946年8月に米軍政により国立ソウル大学校設置令が発表され、今日のソウル大学へと改組されました。 この建物は韓国人建築家朴吉龍が設計、日本人経営の建築会社・宮川組が施工を担当し、1930年8月に着工して1931年10月竣工しました。 1945年の解放以降、ソウル大学校本館として使用されましたが、1972年ソウル大学校がソウル特別市冠岳区の冠岳キャンパスに移転し、その後文化芸術振興院の建物として使われています。 この建物は長方形の形をした鉄筋コンクリート造の構造ですが、部分的に煉瓦と木材も使われています。地下1階、地上部は2階建となっている部分と3階建になっている部分があり、近代合理主義の形態を取り入れた精錬かつ優雅な外観を誇ります。 ※面積-1,628.1平方メートル ※所有者-韓国文化芸術振興院