ソウル(中浪区)

忘憂里(マンウリ)公園は、東亜日報1933年2月2日付記事「弥阿里(ミアリ)共同墓地がしばらくして満杯となることに備えて、京畿道(キョンギド)忘憂里の林野およそ70万坪を京城府の共同墓地として決定した」、同1935年10月24日付記事「梨泰院(イテウォン)の共同墓地を宅地化するため、37,000基あまりのうち縁故者がある墓は忘憂里に移葬し、無縁故の墓は新寺里(シンサリ)で火葬することとした」という当時の新聞記事からも分かるように、忘憂里の忘憂山を1933年から現在のソウル市の共同墓地として利用したのがその始まりです。 その40年後の1973年3月25日には、およそ28,500基の墓で一杯となり、墓を増やすことは禁じられ、改葬や埋葬された遺骨を整理した結果、2018年12月現在で7,425基まで減り、今後も墓の数は減少していくものとみられます。 ちょうどこの改葬を行った時期に、韓国を代表する著名な独立運動家・島山(トサン)安昌浩(アン・チャンホ)、 植民地時代に東亜日報社長を務め教育家・政治家などとしても活躍した古下(コハ)宋鎮禹(ソン・ジヌ)、国楽の名唱・林芳蔚(イム・パンウル)、愛国志士・趙鐘完(チョ・ジョンワン)、独立運動家・朴賛翊(パク・チャニク)、文学評論家・白大鎮(ペク・テジン)などの墓も改葬され、国立墓地や市立公園墓地に埋葬されました。 1992年2月にはここに眠っていた児童文学者・方定煥(パン・ジョンファン)、言論人・呉世昌(オ・セチャン)、僧侶で詩人の韓龍雲(ハン・ヨンウン)、独立運動家で政治家の曺奉岩(チョ・ボンアム)、医師で国語学者の池錫永(チ・ソギョン)、独立運動家・文明煊(ムン・ミョンフォン)、言論人で政治家としても活躍した張徳秀(チャン・ドクス)など7人の年譜碑を地元・中浪区(チュンナング)により散策路を中心に建立、続いて1998年2月には、詩人・朴寅煥(パク・イナン)、学者・言論人の文一平(ムン・イルピョン)、教育者・徐丙浩(ソ・ビョンホ)、独立運動家・徐東日(ソ・ドンイル)、独立運動家・呉哉泳(オ・ジェヨン)、独立運動家・徐光朝(ソ・グァンジョ)、独立運動家の劉相奎(ユ・サンギュ)、医師で独立運動家の呉兢善(オ・グンソン)など8人の年譜碑が追加で5.2Kmの散策路に建てられました。 これまで忘憂里市民公園には、3.1独立運動を主導した万海(マンへ)韓龍雲などをはじめとした17人の著名人が埋葬されている墓地として知られていましたが、各マスコミの人名録や独立有功者功勲録を中心にソウル市施設管理公団葬墓文化センターの故人検索を元に、墓をひとつひとつ実際に確認し、17人以外にも小説家・桂鎔黙(ケ・ヨンムク)をはじめ10人の著名人が埋葬されていることが新たに分かりました。 <出典:ソウル市中浪区庁>


慶尚南道(統営市 )

1604年に設置された統営(トンヨン)三道水軍統制営は、1895年に廃営となるまで足かけ292年、慶尚(キョンサン)・全羅(チョルラ)・忠清(チュンチョン)の三道の水軍を指揮した本営(現在の組織で言えば海軍本部に相当)です。 壬辰倭乱(イムジンウェラン=日本で言う「文禄・慶長の役」)の際、初代統制使に任命された李舜臣(イ・スンシン)将軍の閑山島(ハンサンド)陣営が初代の統制営で、現在の統営にある三道水軍統制営は第6代統制使・李慶濬(イ・ギョンジュン)統制使の時代に設営された場所です。 統制営の主な建物には、朝鮮時代の最も大きな木造建築のひとつに数えられる洗兵館(セビョングァン=国宝第305号)があるほか、地方工房でも最大規模を誇り壬辰倭乱当時、軍需品などを作っていた統営十二工房などがあります。


京畿道(漣川郡)

高台山(832m)は生態系が大切に保存された地域であり、韓国国内で唯一登山により北方の地を眺めることができる山です。古くから広範な山の麓とうっそうとした山林によって、林産資源が豊富なだけでなく、木材と炭を作るのにも適したところと言われています。韓国戦争(朝鮮戦争)以前には堅炭が有名な地方として広く知られていました。また、1907年11月臨津江で義兵を討伐しに派遣された日本軍に敗戦した後、再び日本軍隊と激しく交戦したところとしても知られ韓国国民の精気が渦巻いている所でもあります。


忠清南道(天安市 )

すべての料理が手作りのお店です。代表的なメニューはコンドゥレナムル定食です。忠淸南道のチョンアン市に位置した韓食専門店です。


釜山広域市(水営区)

ワイヤー工場から文化スペースへシックに変身 高麗製鋼(KISWIRE)は世界最大級の特殊線材会社で、2008年まで懸垂橋、自動車ワイヤーなどに使われるワイヤーロープをこの場所で生産していました。現在、リモデリングを行い公演・展示・学術会議を実施できるようになり、ビールバーやコーヒーショップなども入店しています。インダストリアルインテリアの真髄をお楽しみいただけます。


慶尚南道(咸陽郡 )

「牛が鳴く村」という由来がある牛鳴里(ウミョンニ)は風水地理学上、牛が安らかに横たわり反芻する姿のような地形をしているところです、農業を営んでいた昔の人々にとって牛は豊かさと平和の象徴でした。そのためこの村は昔から土地が肥沃で豊かなところとして有名なところでした。その村で中心的な役割を果たす学者の家がこの牛鳴里鄭氏古家です。またこの村は孝行者を多く輩出したことでも有名で孝里村(ヒョリマウル)と別名で呼ばれることもありました。村の人々は昔から学者を多く輩出し、土地が広く暮らし向きも豊かだったこの家を中心に村を形成していたため、「孝里宅」とも言われてきました。 この韓屋のオーナーは2013年からこの家を一般に公開しはじめましたが、板の間に横になりじっと空を眺め人々が憩いのひとときをすごしてもらいたいという一心ではじめたのがきっかけでした。まだここに実際に宿泊した人は多くはありませんが、牛鳴里鄭氏古家に泊まった人々に村の素晴らしい気を与え、歴史と伝統を身近に感じでもらえる場所になればとオーナーは願っています。 自家菜園で野菜を収穫したり、ソンビ(朝鮮時代の学者)体験もできる牛鳴里鄭氏古家、農業を生業とし数多くの学者を輩出した朝鮮時代の伝統的な韓屋を体験できる場所です。


慶尚北道(星州郡 )

星州ハンゲ村は星山李氏が代々住んできた典型的な同姓村落です。朝鮮第4代国王の世宗大王の時に晋州牧師李友(イ・ウ)が住み始めて村を形成しました。現在は月峰(ウォルボン)李廷賢(イ・ジョンヒョン)の子孫達が集姓村を形成して住んでいる村です。村には地方文化財に指定されている9棟を中心に保存状態の良い伝統韓屋が残っています。


全羅南道(羅州市 )

全羅南道羅州市(ナジュシ))の「トレ韓屋村」は高麗時代から続く村で、村の至るところに文化財に指定された韓屋がある古きよき伝統を継承・保存してきた村です。この韓屋村の「山には花が咲く」(サネヌン・コチ・ピネ)は地方文化財に指定された「洪起昌家屋」や国の文化財に指定された「洪起膺家屋」に挟まれる形で建っている築100年を越える韓屋です。1917年に建てられたこの韓屋ですが、釘を一本も使わず厳選した木材のみを使って建てたといわれています。 この韓屋はここで生まれ育った韓屋の持ち主が大事に管理している韓屋です。2011年に宿泊を目的に改修工事に着手、2013年から宿泊施設として営業を始めました。2014年に再度韓屋の隅々まで手を入れ、改修をしています。韓屋の改修の過程で古い扉の一部を交換しましたが、その際取り外した古い扉を捨てずに中庭のテーブルに作り変えて再活用、中庭の雰囲気に特別な趣を与えています。また建てた当時からある年季の入った縁側は昔の姿そのままにしてあります。 芝の中庭には樹齢60年を越えるカエデの木が長い歳月を経て来たことを物語るかのように趣のある姿で立っており、さらに小さな木々があちこちにあって、すばらしい自然の香りを感じることができます。また韓屋の前に広がる山々姿は大変すばらしいものがあります。 「山には花が咲く」には4つの部屋があり、各客室とも最大3~4人まで利用できます。各部屋にはキッチンやトイレがあり、エアコン・テレビ・洗面用具・食器などが完備しており大変便利です。 また断熱材を補修工事の際に入れ、夏は暑すぎず、冬は寒すぎない環境でご宿泊頂けます。美しい韓紙や昔使った小物などで部屋のインテリアにも気を使い、韓屋ならではの趣ある造りとなっています。韓屋の主人の心細やかなおもてなしの心が見え隠れするそんな韓屋です。 そして広々とした芝の中庭の片隅にはつややかな石が敷き詰められ趣があり、この韓屋の父親が3年がかりで造り上げたとのことです。中庭にはそれぞれの客室の宿泊客が利用できるよう野外テーブルが置かれています。清潔さ、そして真心を大切にする韓屋の主人の気配りのせいか、全体的に整理整頓が行き届き、ゆったりとした雰囲気がする韓屋です。 韓屋の前には羅州市が作った散策路があり、傍らには韓屋の主人が耕した家庭菜園もあります。中庭にはヒョウタンやヘチマが生っており、裏山にはどんぐりの木が生い茂っています。 また、車ですぐの所に羅州山林資源研究所内にある羅州メタセコイアの道があり、山林浴も可能です。 さらに「山には花が咲く」のすぐそばには文化財となっている韓屋が数多くあり、ぐるっと巡ってみるものおすすめです。これ以外にも村には文化財が多く、週末には韓屋の主人自ら村内をガイドしてくれます。周辺には仏会寺、羅州郷校などもあり、宿舎に来る道すがら、あるいは帰路の途中で見学してみるのもおすすめです。


慶尚北道(高霊郡 )

ケシル村は朝鮮時代中期、嶺南士林派の宗祖である佔畢斎・金宗直(キム・ジョンジク)先生の子孫が作り上げた善山金氏(ソンサン・キムシ)の集姓村です。 およそ360年の伝統を受け継ぐ村で、民俗資料62号佔畢斎宗宅、文化財資料第111号道淵斎(トヨンジェ)、市道有形文化財第175号佔畢斎文集冊板及び彛尊録などの文化財を保存しています。 ケシル村にはおよそ60世帯がいまもなお住んでおり、土塀や韓屋を復元・補修しつつ韓屋村を今に伝えています。 村の共同運営により、韓屋宿泊体験、農産物栽培、伝統礼節及び伝統遊びなどの体験プログラムを実施しており、訪れる人々に農村体験の場を提供しています。 村の道沿いにあるモッコルテク(宅)はこじんまりした韓屋で、客室が1つのみある宿泊施設です。客室内には最新式のトイレと浴室、キッチンが完備しています。オーナーの暮らしがあまるところなく垣間見れる韓屋の中庭の風景は大変美しいものがあります。塀に描かれたかわいい壁画もちょっとした見どころです。 ケシル村の韓屋体験はケシル村営農組合法人が一括管理・運営しています。


全羅北道(完州郡)

全羅北道完州郡(ワンジュグン)の澄んだきれいな農家が立ち並ぶ鳳捿(ポンソ)コル(谷)は青い山に囲まれた深く静かな山あいの村です。 斗億(トゥオク)ヘンボクトゥリム村は鳳捿コルの斗億村の中にある韓屋で、建物の前には広々とした芝の庭が、そして背後には高い山々が屏風のように広がっています。自然に恵まれたこの地に来れば、爽快な空気が体中をきれいにしてくれるような気分になるほどです。 韓国の風水地理的に素晴らしいとされる場所・明堂(ミョンダン)でも韓国の八大明堂のひとつに数えられる鳳捿コルのトゥオク村。 全州中心部からさほど離れていませんが、桃源郷を思わせるほど深く物静かな山間の村です。村の右手には終南山(チョンナムサン)、左手には西方山(ソバンサン)があり。山が村を包み込んでいるかのように見え、この姿が鳳凰が包み込んでいる形に似ていることから「鳳捿」という地名が付けられたといいます。こんな地形のおかげで空気は澄み、一年を通じて美しい風景を誇っています。 斗億村は完州郡の村活性化事業を通じて、斗億ヘンボクトゥリム村に生まれ変わりました。斗億村には築150年の韓屋から築45年の韓屋までさまざまな韓屋が軒を連ねていますが、2010年から村では共同で韓屋宿泊業と協力しさまざまな体験プロフラムを開始しました。 その中で斗億ヘンボクトゥリム村は教育用体験館としての機能を果たしているところです。客室のほか、およそ100平方メートルの広さの大きな体験場があり、団体専用施設として利用しています。 体験場では礼節教育の実施や科挙試験の再現を体験したりします。 宿泊費用には1日3食の食事も含まれていますが、酵素を使って作った漬物やナムル、野菜がいっぱいの地元の田舎料理で構成された健康食をご提供しています。味もすばらしく、都会では味わえないおかずが多く、ご利用のお客様から好評を博しています。 敷地入口の大門脇にある門間(ムンガン)チェの建物に入ると、さまざまご利用いただけるとても広々とした芝の中庭が目に飛び込んできます。そして中庭の前には青い山々を背景に正面、左右にと大きくはだかる瓦屋屋根の家屋が広がり、伝統韓屋の雄大な雰囲気を感じられます。 韓屋の客室は特別な装飾はなく、こじんまりとしてシンプルな造りです。薪を焚いて利用する昔ながらのオンドル部屋となっていることもあり、エアコンは設置されていません。 大門の正面にある体験館の戸は天井につるし開閉する形態となっています。そのため中庭に向って設置されている10つの戸すべて天井に吊るし上げており、山側の戸もやはりすべて開くと、四方に外の風景がパノラマのように広がり素晴らしい風景となります。 斗億ヘンボクトゥリム村は農漁村体験及び休養村の指定を受けた村です。このため村では共同でさまざまな体験を実施しています。 ガイドとともに村の森を巡る「自然体験」、願いを書いたネックレスを作ってかけたり、明堂を訪れる体験などもあります。種籾を蒔いたり、稲を刈ったりする「稲作体験」を始め、サツマイモ掘りの体験も季節毎に行っています。 また弓矢、丸い金属製のリングを転がして遊ぶクルロンセなど伝統遊びを体験することもできます。 ソリ(音)学堂や礼節教育などの体験も一年を通じて2日間のコースで行われています。 この他「杵つき体験」、「案山子作り体験」、「伝統チェギ作り体験」、「凧作り体験」なども常時実施しており、学校単位などの団体で韓国の伝統文化を自ら体験し学ぶことができ、児童・生徒の課外学習の場所として最適なところです。