慶尚南道(山清郡 )

今の鏡湖江は三清郡生草面於西里江亭から晋州の晋陽湖まで約32kmにいたる川で国道3号線沿いに流れているのでドライブをしながら美しい景色を見ることができます。また、鏡湖江は川幅が広くて大きな岩がなく、くねくねと曲がっていて砂と小石が体積していて川の流れが速いながらも、川の流れが渦巻いている場所がほとんどないのでラフティングにぴったりの場所です。


仁川(中区) , 仁川市街地

仁川郵逓局(現・仁川中洞郵逓局[郵便局])は仁川広域市中区港洞(ハンドン)にある日帝強占期の建物。1982年3月2日仁川広域市有形文化財第8号に指定されました。日帝強占期の1924年、郵便業務を担当するため建てられた近代式の建物で、当時の官庁としては大きな規模です。建設当時の名称は仁川郵便局でしたが、1949年8月に仁川郵逓局と改称しました。 この当時流行した折衷主義の建築様式を単純化した建物で、総面積1,787平方メートル(約540坪)です。正面入口は建物本体から張り出される形で造られ両側に大きな柱を配置、その正面玄関上部の建物本体2階部分からは柱の上部にある屋根などの上部建造物の重さを和らげ装飾が施されている柱頭がない数本の柱で建物を支えています。 当時、行政官庁の建物は上部にドームの形をした塔屋を造るのが一般的でしたが、この建物はこの部分を省略するなど平面構造や外観の細部が基本的な形式からやや外れています。 全体的な構造は煉瓦造りですが、床はコンクリートで施工されています。外部の仕上げは外壁の下部にのみ花崗岩を二段積みにしその上の部分にはモルタルで処理し石造の模様を表現しています。 韓国戦争(1950~1953年)当時の市街戦などにより一部が破損、屋根がスラブ材からスレート葺きに改修されるなどし1957年復旧工事が完了しました。


江原道(三陟市)

高さ1,353mの頭陀山(トゥタサン)は、太白山脈の主峰をなしており、美しい山勢とその山の中には文化遺産および希少動植物が散在しており、毎年多くの登山客が訪れます。頭陀山は、風の山と呼ばれるほど、風が強く吹く山で、山の名前である頭陀とは仏教用語で、俗世間の煩悩を捨てて仏道に入り修行をすることを意味します。


京畿道(高陽市) , 一山

北漢山(プカンサン)が目の前に広がる京畿道(キョンギド)高陽市(コヤンシ)。そのソウル市寄りのエリアにあるご家族で癒しのひとときをお過ごしいただけるホットプレイスがここアクアフィールド高陽です。 格の違いが一目瞭然のチムジルスパは圧巻で、また、だれでも一度は夢見たロマンを満喫できるルーフトッププールもおすすめです。 ワンランク先行くすばらしさ、ワンランク上の憩いのひととき、最高の施設、そして行き届いたサービスまでお楽しみいただけるのがここアクアフィールド高陽です。 チムジルスパはクヌギ炭ルーム、黄土ルーム、火窯など伝統的なチムジルルームをはじめ、メディアアートルーム、クラウドルームなどテーマ型のチムジルルームもあります。 また周囲の地平線に続くかのように幻想的なインフィニティプールはルーフトッププールを代表する施設です。  


釜山広域市(中区) , 南浦洞(チャガルチ市場)

釜山映画体験博物館は韓国国内初の試みとなる映画をテーマにした体験型複合文化スペースです。 釜山映画体験博物館の展示は1編の楽しい映画探検ストーリーにしたがって、映画の歴史や原理、映画のジャンル及び制作方法、映画祭などの映画コンテンツをわかりやすく、そして楽しく体験できるよう構成されています。


慶尚南道(昌原市 )

慶尚南道昌原市義昌区にある「慶南道立美術館」は、2004年6月23日にオープンしました。地上4階、地下1階からなる建物で、展示コーナーや学術的研究施設、教育施設などが完備されています。


江原道(三陟市)

天然記念物第178号に指定されている大耳里(テイリ)洞窟地帯にある「観音窟(クァヌムグル)」は、規模と景観に優れており、韓国国内で美しく学術的価値が高い洞窟として評価されているだけでなく、世界洞窟学界でも洞窟らしい洞窟として認められています。 洞窟入口は幅4.2メートル、高さ3メートルで本洞の長さは1.2キロメートル、支洞の長さは0.4キロメートル、洞窟の全長は約1.6キロメートルで、現在も洞窟生成物が活発に成長しています。本洞は天井の高さが20メートルに達する所もあります。一年中地面には洞窟流が流れ落ちており、その流出量は1日に15,000立方メートルに達します。洞窟内には4つの滝があり、第4の滝は高さ9メートル、滝の下部には長軸40メートル、短軸18メートル、高さ22メートルの広場があります。洞窟内の洞窟生成物には白色の鍾乳管をはじめとし、鍾乳石、石筍、石柱、楯状鍾乳石、洞窟サンゴ、洞窟真珠、ヘリクタイト、石花、膜状鍾乳石など石灰洞窟で現われるほとんどすべての種類の洞窟生成物が見られます。


ソウル(龍山区) , 梨泰院・龍山

ソウル地下鉄6号線・緑莎坪(ノクサピョン=龍山区庁)駅は、2019年3月ソウル特別市の公共美術プロジェクトにより、芸術と自然が織りなす文化スペースとして新たに生まれ変わりました。 緑莎坪駅は、地下5階のプラットフォームに降りた瞬間から地上に上っていくまでの間、様々なアート作品を鑑賞できる文化スペースとなっています。


慶尚北道(慶州市 )

※2019~20 韓国観光100選※ * 慶州 路東里古墳群 * 慶州(キョンジュ)中心部・路東里(ノドンリ)一帯にある古新羅時代の古墳群で、 鳳凰台(ポンファンデ)/飾履塚(シンニチョン)/金鈴塚(クムニョンチョン)などがあります。鳳凰台は高さ22m、直径82mで、皇南大塚(ファンナムテチョン)に次いで大規模な墓です。 鳳凰台の南にある飾履塚は、盛り土をした封墳の高さが6.5m、直径30mで、1924年の調査では、棺を置く槨(クァク・トッノル)を設けた積石木槨墳であることが明らかになりました。内部からは耳飾り、硝子製の玉で出来た胸飾り、銀製の帯、銀製の腕輪、環頭大刀、双龍環頭大刀、馬具、漆塗りの器などが出土しました。特に金冠や金銅冠の代わりに金銅製の履物が出土し、模様も独特で大変すばらしいものであったことから、この墓の名称も飾履塚と名付けられました。 鳳凰台の南側にある金鈴塚もやはり1924年に調査した墓で、長方形のくぼみを掘った後、底に河原の石や砂利を敷き詰めた高さ4mから5m、直径およそ18mから20mの積石木槨墳です。金冠、金製の耳飾り、金の腕輪、金製の帯、銅製の履物、鉄製の釜、漆塗りの器、硝子製の器、土器など数多くの遺物が出土しました。土器の中で、船の形をした土器や騎馬人物像の土器が異彩を放っています。この墓は規模が小さく、金冠や装身具の大きさが小さく、 殉葬された形跡があることから、新羅時代の王子の墓とみられています。飾履塚と金鈴塚は同じような規模・構造で、鳳凰台とともに深い関係がある墓とみられます。 (面積 - 16,902平方メートル) * 慶州 路西里古墳群* 慶州市の北西・路西洞(ノソドン)一帯にある新羅の古墳群で、現在およそ10基の大小さまざまな墓が残っています。 その中でも北側にある第130号墳は路東里古墳群の鳳凰台と対をなし、西鳳凰台と呼ばれています。路西里古墳群の内部構造は積石木槨墳と横穴式石室墳の二つに大きく分かれます。金冠塚(クムグァンチョン)/瑞鳳塚(ソボンチョン)/壺杅塚(ホウチョン)/銀鈴塚/第138号墳は新羅時代のもので、長方形のくぼみを掘った後、棺を置く槨を設け、河原の石や砂利を敷き詰めた積石木槨墳です。双床墳(サンサンフン)・馬塚(マチョン)・牛塚(ウチョン)などは墓の内部に割石で四角形の石室を造り、古墳の入口から石室までの間に羨道(ヨンド/ノルギル)を設ける横穴式石室墳で、新羅時代の様式となっています。 金冠塚は1921年に調査が行われましたが、金冠や金製の帯をはじめとしたさまざまな豪華な金工芸品が数多く出土しました。 西鳳塚は瓢の形をした双円墳の北側の墓で、鳳凰の装飾が付いた金冠が出土しました。また年代が刻まれた銀製の蓋がある器(銀盒=ウナプ)が出土し、5世紀前後に作られたものとみられます。 銀鈴塚と双円墳を形作る壺杅塚は日本の植民地支配から解放された1945年の光復以降初めての遺跡発掘で、高句麗第19代の王・広開土大王(クァンゲトテワン) を記念し、 乙卯(451)年に作られたという文字が書かれている銅製の器・銅盒(トンハプ)が出土しました。双床墳・馬塚・牛塚などは統一新羅時代初期の横穴式石室墳で、大部分盗掘され、詳しいことは分かっていませんが、双床塚からは統一新羅時代の土器の破片、馬塚からは馬の骨や鞍の一部などが出土しました。 路西里古墳群は路東里古墳群と似た性格の積石木槨墳と前期石室墳が混在し、墓の形態が移りゆく過程を示しており、これは慶州地域の墓の変遷を知ることができる、重要な史料と高く評価されています。 (面積 - 44,200平方メートル) * 慶州皇南里古墳群 * 慶州市庁舎南の反対側一帯にある古墳群で、味鄒王陵(ミチュワンヌン)をはじめ、およそ250基の古墳があり、古墳公園となっています。 1973年には天馬塚の発掘調査を実施し、金冠及び天馬が彩色付きで描かれた白樺樹皮障泥(馬の鞍についている泥よけ)が出土、この泥よけに描かれた馬は新羅時代の絵画としては唯一最古のものとして広く知られています。現在は古墳内部に入り見学できるように復元し、一般に公開されています。また古墳のうち、最も規模が大きい皇南大塚98号墳は1973年から75年にかけて発掘され復元されたものですが、この古墳の発掘により統一新羅以前に積石木槨墳や小型石槨墳が混在していたことが明らかになりました。 * 沿革 * 慶州市内の皇南洞一帯に分布している新羅時代初期の墓で、一部はは大陵苑区域の中にあります。日帝強占期(1910~45年)につけられた通し番号90~114、151~151号である円形に土を盛り上げた30基の墓です。大きな墓は積石木槨墳で、周囲には封墳がなくなった小さな墓があります。大陵苑の中には伝・味鄒王陵をはじめ、天馬塚や皇南大塚などがあります。1973年に発掘調査された天馬塚は直径47m、高さ12.7mで、金冠をはじめ多くの遺物が出土しました。 当時天馬塚が描かれた馬の鞍についた泥よけ・障泥(チャンニ)が出土したため、「天馬塚」と呼ばれ、現在ではっその内部が一般に公開されています。また、1973年から75年にかけて発掘調査された皇南大塚は南北の長さが120m、東西の幅が80m、高さ23mの巨大な双円墳で、南側の墓からは金銅冠や男性の骨の一部、そして多くの遺物が出土しました。 北側の墓からも金冠や夫人帯という文字が刻まれた銀製の帯など多くの遺品が出土しました。南側の墓に埋葬された人物は男性、北側の墓に埋葬された人物は女性で、夫婦の墓をくっつける形で造ったものとみられます。


慶尚南道(南海郡 )

ヘオルム芸術村は廃校になった学校をリフォームして地域の文化芸術創作空間を提供したり支援活動をするためにつくられました。自然の恵みや美しい建物、造形が有名で、伝統工芸を体験しに遠方から訪れる人もいるほどよく知られています。全国放送6回、地方放送12回、その他新聞、雑誌などさまざまなメディアにも取り上げられ注目を集めています。