京畿道(水原市)

1796年に完成した水原華城(スウォンファソン)の烽墩(ポンドン)は、夜には松明の灯りを、日中には狼煙を上げ、遠くにメッセージを伝える軍事信号体系のひとつです。 一般的な烽燧台(ポンスデ)は周囲をよく見渡せる山の頂にありますが、この烽墩は山頂にはなく築造方式が他とは異なっています。 城郭となっている水原華城の城壁から突出した形で造られ、花崗石を基礎に積み、上部は煉瓦を積み城壁より高く築城しています。 韓国の城郭様式としては稀な形式の水原華城の烽墩には、敵の攻撃に備え、城郭内から銃火器で攻撃できるよう砲穴(ポヒョル=砲眼)や銃眼(チョンアン)が開けられ、烽燧軍の兵士たちが使うオンドル部屋や倉庫などもあります。 狼煙の合図は五つある狼煙台から何本の煙や松明の明かりが上がっているかでその伝える内容が異なり、平時には最も南側にある狼煙台から一つ昼夜を問わず上がり、敵が国境近くに現れれば狼煙が二つ、敵が国境までたどり着いたと確認すると狼煙が三つ、敵が国境を超えると狼煙が四つ、いざ戦闘開始となると五つすべての狼煙台に煙や松明が上がったといいます。


全羅南道(光陽市 )

この建物は、韓国を代表する詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)が生前に書き残した遺稿を所蔵しているところです。 尹東柱(1917~1945年)は1941年に「空と風と星と詩」を発刊しようと試みましたが、日帝の妨害により実現できませんでした。  この詩の原稿を尹東柱の親友で、後にソウル大学校国文学科教授となる鄭炳昱(チョン・ビョンウク=1922~1982年)氏に託しこの場所で保管、植民地時代にも苦労の末守り抜き、日本からの植民地支配が終わった1945年の光復(クァンボク)から3年たった1948年、ようやく出版にこぎつけ、日の目を見ることとなりました。 この家屋は鄭炳昱氏の父親が建てたもので、醸造場と住居を兼ねた建物となっています。 <出典:文化財庁国家文化遺産ポータル>


慶尚北道(慶州市 )

月精橋(ウォルジョンギョ)は、慶尚北道(キョンサンプクド)慶州市(キョンジュシ)校洞(キョドン)にある統一新羅時代に架けられた橋です。この橋は朝鮮時代に流失しその姿を失ってしまいましたが、2018年4月、韓国国内最大規模の木造橋として復元しました。 「三国史記」によれば、この月精橋は、統一新羅時代の景徳王19(760)年に建てられたと記録されており、慶州月城(ウォルソン)と南山(ナムサン)を結ぶ役割を果たす橋でした。 1984年11月26日から1986年9月8日まで2回にわたり、復元工事のための情報収集及び発掘調査を行い、その結果、建設当時の月精橋が木造の橋であったことが初めて判明しました。 この調査をもとに復元のための設計図を引き、出来上がった設計図を基に2008年から2013年まで復元工事を実施、全長66.15m、幅13m、高さ6mの橋の復元が完工しました。 2016年4月からは橋の両端に二つの門楼の建築を始め、2018年4月に完成しました。 門楼の二階には出土した遺物や橋の建築の歴史を紹介するデジタル展示館があり、月精橋の歴史や復元の過程の映像も上映しています。 慶州市の新羅王京八大核心遺跡復元整備事業のなかで初めて完工した月精橋復元事業は、今後行われる皇龍寺(ファンニョンサ)、新羅王宮、チョクセム地区、新羅坊里制などの復元整備工事にも多くの参考となっています。


慶尚北道(聞慶市 )

韓半島最北端にある白頭山(ペクトゥサン)から続く山脈・白頭大幹(ペクトゥデガン)にある鳥嶺山(チョリョンサン)の峠・聞慶(ムギョン)セジェは、古の時代から嶺南(ヨンナム=慶尚道)地方と首都・ソウルを繋ぐ関門であり、軍事的な要衝地でもあった場所です。 セジェという地名が付いた由来には、鳥(セ)が飛んでも越えることが難しい峠(ジェ)、ススキ(オクセ)が生い茂る峠など諸説あります。 この名称からも分かるように、セジェは峠ということで、山高く、急峻なところにあります。聞慶セジェには第一の関・主屹関(チュフルグァン)、第二の関・鳥谷関(チョゴックァン)、第三の関・鳥嶺関の三つが設置されています。そのうち、第三の関である鳥嶺関はセジェの頂上、最も高い位置にあります。 この鳥嶺関は、北から侵入する敵から防御に当たるため、朝鮮王朝第14代の王・宣祖(ソンジョ=在位:1567~1608年)の時代に着工し、第19代の王・粛宗(スクチョン=在位:1674~1720年)の治世に重創されました。 この場所は高麗時代初期から鳥嶺と呼ばれ、重要な交通の要所となっていました。 門楼は1907年に壊され焼け落ち、アーチ型の石積となった虹霓門(ホンイェムン)や楼閣、左右の石城135mは1976年に復元され現在に至ります。


済州道(済州市 )

子どものような心を持つ大人という意味のキダルト。そのキダルト文化を代表するフィギュアを収集・展示する「フィギュアミュージアム済州」に皆様をご招待します。 年齢を問わず楽しく観覧できるアートフィギュアの世界、目が離せない幻想的なフィギュアがいっぱいの「フィギュアミュージアム済州」では、アクションフィギュア、 ムービースタチュー、実物大の大型映画キャラクターフィギュアやアップサイクリング・ヒーリングアート作品に至るまで、貴重で精巧なハイクォリティーの様々なフィギュアが展示されています。 あらゆる世代に共感していただけるよう、映画・ゲーム・アニメーションキャラクターなどジャンルを問わず数多くのフィギュアに触れられるよう工夫がなされています。 特に済州島という地理的制約などにより、これまでなかなか触れることができなかった最高のキャラクター産業と目される「フィギュア」を、済州に住む人々をはじめ、国内外の観光客の皆様にもお楽しみいただける済州島を代表する文化スペースとなるよう設立されたのが、このフィギュアミュージアム済州です。


慶尚北道(慶州市 )

慶州(キョンジュ)崔氏(チェシ)の宗家で、新羅時代、瑤石宮(ヨソックン)があったと伝えられている場所にある、慶州崔浚先生生家(慶州崔富者宅)。 九代に渡り代々受け継がれる、1700年ごろに建てられたというこの家屋ですが、はっきりした建築時期は分かっていません。 建物には舎廊(サラン)チェ・母屋・大門(テムン)チェなどの各建物があり、その中でも大門チェの建物には小さな部屋や大きな物置となった部屋などがありました。 客人を迎えたり男主人が生活の場としていた舎廊チェの建物は中庭の向かい側にありましたが、離れの建物のとともに1970年11月火災により焼失、現在の建物のみが残りました。 舎廊チェのあった場所の後ろにある母屋は、中庭を囲むように建てられているように見える構造となっていますが、実際にはこの母屋は「コ」の字型となった建物で、「フ」の字型をした舎廊チェの建物や一文字型の中門(チュンムン)チェの建物が合わさり、中庭を囲む「口」の字型の建物のように見えるのです。 また、母屋の西北の方には家廟(カミョ)が設けられているほか、古宅前からまっすぐ南へまっすぐ伸びる幅員の広い通りは当時の栄華を偲ばせ印象的な道となっています。 このほか母屋の裏手に花畑があり、古宅の美しさに花を添えています。 古宅は朝鮮時代の支配階級・両班(ヤンバン)の家屋の原型を留めていることから、当時を知る重要な史料との評価を受けています。 文化財の指定がなされた当初は、慶州崔植(チェ・シク)氏家屋という名称でしたが、慶州崔氏一門が代々受け継ぎ暮らしてきた家でもあり、また慶州地域の名立たる富豪で「校洞崔富者チプ(家)」と広く知られていることから 「慶州校洞崔氏古宅」へと名称を変更(2007年1月29日)しました。 <出典:文化財庁国家文化遺産ポータル>


京畿道(水原市)

京畿道(キョンギド)水原市(スウォンシ)八達区(パルダルグ)の八達路にある長さ100mほどの小さな路地・水原トンタク通り。 ここは1970年創業の元祖の看板を掲げるお店から新規参入のお店までおよそ11店舗ほどが、鶏一匹すべてを使って油で揚げた水原名物のトンタク(トンタクとは元々、鶏を丸ごと焼いた、あるいは丸揚げした料理)をメインメニューにし、商いを行っている場所です。 大きな釜に油をたっぷり注ぎ、鶏一匹分すべてを揚げるのがここ水原トンタク通りの伝統で、主なメニューはフライドチキンと甘辛ソースが美味のヤンニョムチキンの二つ。最近のフライドチキンとはちょっと違った芳ばしい味わいが人気を博しています。 水原トンタク通りには、1970年代、露台に鶏舎を置いて自ら鶏を捕まえて鶏肉を揚げていた時期から現在に至るまでトンタク通りで店を切り盛りしている「メヒャントンタク」のおばあちゃんも健在で、この他にもこの通りの有名店「ヨンソントンタク」「チンミトンタク」なども軒を連ねています。 手ごろなお財布にやさしい値段で、独特の味わいのトンタクが山盛り食べられることから、懐事情が寂しい学生たちに特に人気で、その口コミを聞きつけて韓国全国からやってくる人々でいつも店は賑わっています。


全羅南道(麗水市 )

麗水(ヨス)旧港海洋公園は、2001年から麗水港湾庁が麗水旧港の海岸を整備し、市民の憩いの場として造成した公園です。 将軍島(チャングンド)や突山(トルサン)大橋、南海島(ナメド)や小さな島々が大変よく見え、すぐそばにはハメル灯台もあるほか、園内には大型公演場、釣り場、憩いの場などもあります。  熱帯地域を思わせるワシントンヤシや照明の灯りが園内を素晴らしい風景に作り上げ、また夜になるときらびやかにライトアップされた突山大橋の夜景が公園から美しく見え、数多くの人々が訪れる海洋公園となっています。 麗水旧港海洋公園の防波堤の突端には、朝鮮事情をヨーロッパに最初に紹介したオランダ人の船乗り・ハメルを称え建てたハメル灯台という観光スポットがあります。 ハメルは1653年、済州島(チェジュド)に漂流し、その後1663年7月麗水の全羅左水営に送られ雑役に従事し抑留生活を送りましたが、1666年になりようやく日本へ脱出しました。 現在のハメル灯台の位置が、まさにハメルが朝鮮を発った場所にほかなりません。 2005年3月、国際ロータリークラブ創立100周年を記念し、麗水地域のロータリークラブ関係者によりこのハメル灯台が建てられました。


慶尚北道(青松郡 )

薪城(シンソン)渓谷の真髄ともいえる白石灘(ペクソクタン)は、白い石が輝く渓流ということから名付けられた場所。 眩いばかりの白い岩々が素晴らしい景色を作り出し、今でも年を追うごとにその姿は変化を遂げています。 ポットホール(甌穴・かめ穴)とは、川の流れにより長い時間をかけて風化・浸食、岩盤に甕のような深い穴ができることをいいます。 真っ白な白石灘の上を青く輝く澄んだ渓流が流れる様子は大変すばらしいものがあります。 白石灘の下層部分には およそ2cmから20cmの礫を含んだ礫岩が見受けられ、上層へ向かうほどその礫の粒子が少しずつ細かくなっていることが分かります。 この他にもこの白石灘では泥岩片や斜層理、生痕化石など数多くの堆積構造が観察でき、地質学習の場としてもおすすめの名所となっています。 <出典:青松国家地質公園>


京畿道(坡州市 ) , 坡州(ヘイリ村)

臨津ナルの船着き場の南にある亭子(東屋)で、朝鮮時代、領議政(ヨンイジョン)という中央官職の長を務め居昌府院君(コチャンブウォングン)慎承善(シン・スンソン)が建てた来蘇亭(ソレジョン)。 臨津江(イムジンガン)八景は、朝鮮王朝第19代の王・粛宗(スクチョン・在位:1674年~1720年)の時代の文臣・壺谷(ホゴク)南龍翼(ナム・ヨンイク)先生が現在の京畿道(キョンギド)坡州市(パジュシ)長山里(チャンサルリ)にあったこの来蘇亭に上り臨津江の美しい風景を詠んだ詩『来蘇亭於(ネソジョンオ)』に由来する、臨津江縁にある八つの景勝地のことを指します。 この臨津江八景を代表する第一景は臨津江が蛇行する川縁、現在の坡州市坡平面(パピョンミョン)栗谷里(ユルゴクリ)にある花石亭春(ファソクチョンチュン=花石亭の春)。 この花石亭は、1443年、寄棟屋根に初翼工形式で建てられ、臨津江が眺められるこの場所で朝鮮時代を代表する儒学者・栗谷(リュルゴク)李珥(イ・イ)が弟子とともに学問について論議し余生を送ったといいます。