観光/文化一覧

KOREA COUNTRY CLUB(코리아 골프장)
 
京畿道(竜仁市)
Korea Golf & Art Village内のKOREA COUNTRY CLUB(コリアカントリークラブ/コリアゴルフ場)は、ソウル江南から30~40分という好立地以外にも夜間の照明施設および電磁誘導式5人乗りカートなど、最上の施設とカスタマサービスを誇る名門ゴルフクラブとして人気です。また、9ホールの増設によって、さらに良いサービスを提供できるようになりました。コースはアップダウンがほとんどありませんが、中央には大きな池があり、4つのホールがアイランドグリーンとなっています。その他、各ホールには特定の樹木が植えられており、それぞれに個性を持たせています。また、各種プロ・アマゴルフ大会を誘致し、常に最高のフィールドコンディションを維持するために徹底したコース管理をおこなっています。

京元線鉄道中断点(新炭里駅)(경원선 철도중단점(신탄리역))
 
京畿道(漣川郡)
韓国戦争以前にソウルと元山を行き来し、人や物資を運んでいた鉄道は今新炭里駅で引き返しています。新炭里駅から昔の鉄原駅を通り休戦ラインを越え、平康までの間は現在鉄道がなくなってしまっている状態です。北韓では平康-洗浦-高山-龍池院-元山などを通り高原まで続く京元線を「江原線」と呼んでいます。現在新炭里駅の近くにある「鉄馬は走りたい」という京元線鉄道の南側中断点を物語る標識が、分断の悲しみを伝えています。2005年基準で漣川群を通る京元線の鉄道駅数は全部で7つありますが、この中で最初に設置された駅は全谷駅、漣川駅で、1912年7月25日に普通駅として営業を開始しました。そして翌年の1913年7月10日に新炭里駅が簡易駅として営業を開始し、1954年7月1日には普通駅として営業を開始しました。これら4つの駅は京元線が開通する前に作られた駅であり、日帝強占期にはこの4つの駅のみが運営されていました。その後、哨城里駅が普通駅として営業を開始し、戦後1956年10月1日に新望里駅に乙種委託販売所が設置されました。さらに漢灘江国民観光地が作られ、観光客が押し寄せたので、これに対応するため1975年6月28日に漢灘江駅が開設され簡易駅として営業を開始しました。

ソウル 延世大学校スティムソン館(서울 연세대학교 스팀슨관)
 
ソウル(西大門区)
延世大学校で最初に建てられた建物で、1919年着工、1920年に竣工した石造2階建ての建物です。 延世大学校の前身である延禧専門学校設立者アンダーウッド(韓国名・元杜尤/ウォン・ドゥウ)牧師が故郷・米国へ帰国し恒久的な学校建築のためアメリカロサンゼルスに居住していたチャールズ・スティムソンの寄付を得ましたがその後逝去、後任の校長エビソンがその意志を引き継ぎ、その寄付金を元に建設しました。 建設開始時には未亡人となったアンダーウッドの妻が礎石を置き、当時の化学科教授・ミラーが工事の監督を行ないました。 設計は未詳とされていますが当時の米国人建築家らが来韓し設計及び基本計画を作成したといわれています。外観は南北に細長い形をした切妻屋根のゴシック様式の建物となっています。

漆谷護国平和記念館(칠곡호국평화기념관)
 
慶尚北道(漆谷郡 )
漆谷護国平和記念館(チルゴクホグクピョンファキニョムグァン)は6・25戦争(朝鮮戦争)中に起きた幾多の戦闘のうち、55日間の洛東江防御線戦闘により形勢逆転し、大韓民国を守り抜いた、その洛東江防御線戦闘における最大激戦地である漆谷に位置した記念館です。地上4階・地下2階の建物と広い屋外記念館にさまざまな記録や遺物が展示されており、リアルに作られたジオラマと体験施設を通じて護国・安保の意識と愛国の精神を涵養する護国平和体験の空間となっています。 開館日 2015年10月15日

敦義門博物館村(돈의문박물관마을)
 
ソウル(鍾路区)
敦義門博物館村(マウル)は、漢陽(現在のソウル)を取り囲むように築城された城郭・漢陽都城(ハニャントソン)の西側にあった城門・敦義門(トニムン/トンイムン)城内のすぐそばにある町に作られた、町全体が博物館のようになっているエリアです。 敦義門博物館村は、その歴史的価値や近代から現代にかけてのソウルの暮らしぶりや痕跡を余すところなく今に残すエリアで、ソウル市主導の都市再生により、町全体を新たな都会の中の歴史・文化スペースとして生まれ変わらせました。  敦義門博物館村がある場所は、隣接する鍾路区(チョンノグ)橋南洞(キョナムドン)一帯とともに2003年「敦義門ニュータウン」再開発地域に指定され、再開発地域内にあるすべての建物を取り壊し、博物館村のあるエリアには近隣公園を整備する計画でした。 しかし、ソウル市は漢陽都城の西側の城門・敦義門のすぐそばの町、ここセムンアンの持つ歴史的価値を多くの人に知ってもらい、人々の暮らしぶりや痕跡がいまだなお残るこの小さな町そのものを博物館として後世に残し、ソウル市民の歴史・文化の財産として新たに造成することに決しました。 町に残る建物は最大限生かした上でリモデリングをし、一部の住宅については取り壊し、その跡地には広々とした広場を設けました。近代から現代にかけて造られた建造物や韓屋、100年の歴史を誇る路地など情にあふれる町の姿は同じ場所にそのまま残し、多くの人々が楽しみ体験できる新しい文化の場として再生しました。 現在、敦義門博物館村は「近現代100年、記憶の保管所」というコンセプトで装いも新たに数多くの人々を温かく迎えています。 40軒ほどの既存の建物はそのままに、元々の造成の趣旨である「生きている博物館」というアイデンティティを生かすべく、一年を通じて、展示、体験、公演、マーケットなど「参加型」スペースとして数多くのコンテンツを実施、大々的な再整備を行ったのがここ敦義門博物館村の大きな特徴です。

錦山 七百義塚(금산 칠백의총)
 
忠清南道(錦山郡 )
この場所は、壬辰倭乱(文禄の役)の際に、日本軍との戦いで戦士した趙憲先生と霊圭大師率いた義兵700人のお墓がある場所です。壬辰倭乱(文禄の役)が起きてすぐ、趙憲先生は義兵を起こし、宣祖25年8月1日、霊圭大師と共に清州城を修復し、18日には湖南の巡察士であった権慄将軍率いる官軍と共に錦山の敵に攻撃を仕掛ける約束をしました。しかし、権慄将軍は、敵の情勢から、作戦を変更し、出兵の日を遅らすという手紙を書きましたが、これが趙憲らに届きませんでした。作戦が変わったことを知らずに出兵した義兵の部隊は、血戦の末ついに全員戦士しました。趙憲先生の弟子朴廷亮と全承業がその4日後、700人の遺骸を1つのお墓に埋葬し、七百義塚と名づけました。 その後、宣祖36年(1603年)に[重峯趙憲先生一軍殉義碑]が建てられ、仁祖25年(1647年)には祠が建てられ、七百義士の位牌が祀られました。 *文化財庁主管で毎年9月23日午後3時から慰霊祭が行われます。(七百義塚管理事務所主催) *主要所蔵文化財 1)宝物第1007号(6種7点):朝天日記、祭文2点、宣祖大王教書、 重峯先生教旨、箭筒(矢筒)、(趙憲義兵長除授教書)趙憲文廟配享教旨 2)その他の遺物(8点):重峯全集、抗義新編、木刻版、尋源録、正気録、馬上激文、槍、世篤忠貞、霽峰文集

ベネコル(배내골)
 
慶尚南道(梁山市 )
ベネコルは嶺南アルプスの心臓部に位置し、澄んだ渓谷の周辺には野生の梨(배:べ)の木がたくさん育っていることからベネゴルと言われ別名二百里とも言われています。ここは神仏山∼霊鷲山の南アルプスと、密陽の天皇山∼載薬山をつなぐ西アルプス間の二十里ほどの渓谷で避暑シーズンには多くの人々が訪れます。

珍島(진도)
 
全羅南道(珍島郡 )
珍島郡は西海(黄海)と南海が出会う韓半島(朝鮮半島)西南の海にある約230の島から成っています。本島である「珍島(チンド)」は、「1年農業して3年暮らす」という言葉があるほどに農耕地が広く、実り豊かなところです。また、島周辺の海では魚類と海藻がたくさんとれるため、島の名前も「宝の島」という意味を持つ「珍島」と付けられました。島全域にはさまざまな遺跡が散在しており、なかでも龍蔵山城と南桃石城は高麗時代の三別抄の抗蒙遺跡址として、鳴梁海峡は壬辰倭乱(文禄の役)当時、李舜臣将軍が倭軍を打ち破った戦勝地として知られています。珍島には八景と三宝があり、珍島八景とは鳴梁大捷址である鬱陶項海岸、神秘の海割れ、観梅島の観梅八景、南桃石城、雲林山房、龍蔵山城など、三宝は珍島犬、クコの実、自然産岩ワカメをいいます。毎年旧暦2月末頃には古郡面の回洞里と義新面の茅島里間に長さ2.8キロメートル、幅40メートルほどの道が現れる海割れが見られます。韓国版モーゼの奇跡として広く知られたこの神秘の海割れが起こる頃には燃灯祭が開催され、多くの観光客が訪れます。珍島と海南の間の鬱陶項には1984年に珍島大橋がかかり陸路で島に出入りすることができるようになりました。

レッツランパーク釜山慶南(렛츠런파크 부산경남)
 
釜山広域市(江西区)
「レッツランパーク釜山慶南」は、釜山市と慶尚南道の境に位置し、両地域住民にとって代表的なファミリーパークとして愛されています。代表体験プログラムには、一般人の出入りが制限されているエリアを巡る「電気循環車」がある他、子ども達にドキドキ・ワクワクな体験を提供するソリ型アトラクション「Sledhill」、子ども乗馬体験「ポニー乗馬場」、珍しい動植物の観察およびエサやり体験「トーマの庭園」も人気です。また、46,000坪の敷地をライトアップした「光祭りイルミア」も見ものです。